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(1)中道であれ

この記事を読む前に、予備知識として次の記事をお読みください。
お金儲け
不公平
煩悩のあいうえお 拘り「お坊さん」
中道であれ

目次

中道であれ

自分が人並み以上の裕福な生活を送っていれば、それは心を縮小している時である。
そのまま続けば来世は人ではない。
物欲金欲をなくし、人並み以上のお金があっても人のために使うことである。
人のために使う方法がわからなければ、覚醒するか覚醒した者に託すことである。

自分が人並み以下の生活を送っていれば、それは心を大きくしている時である。
しかし、いつまでそれが続くようであれば、心が成長していないことになる。
これもまた、来世は人ではないことになる。
心の向上に努めること、そして今あるものすべてに感謝できるようになればそうはならない。

今あるものすべてに感謝するとは

今あるものすべてに感謝するとは、それが嫌なもの不都合なものであってもである。

「願望、欲望を叶えてもらうと、ありがとうと思うが
辛い目、嫌な目に遭わされると憎しみ、恨みが出てきてしまう。
これでは人間になれない。何事にも感謝である。」
Part4語録より

とは言っても、憎しみ恨みをなくすのは難しいことである。
人として正しい心持ちにならないことには、すべてに感謝できるようにはなれない。
そうなるには、やはり心を磨くことである。
心を磨くには、ためになる苦労をすること。
ためになる苦労とは、心の糧となる苦労をすること。

心の糧にならない苦労とは

修行のように、自ら苦を与えても心が成長することはない。
これはお釈迦様が最後に悟ったこと。

ブログ 煩悩のあいうえお(30) 拘り「お坊さん」より抜粋

『お釈迦様が苦行を積んで悟ったことは、苦行を積んでも悟れないということを悟ったのです。
それを悟った途端、悟りを開いたのです。
ならば、苦行は必要ではないかと思われますが、
これは、苦行をしないと悟りを開けないという煩悩を出し尽くしたから
悟りを開いたということです。
そういう意味では、苦行は必要です。

意識して、自ら過酷な修行を行う者もいますが、この世は意識してもしなくても修行の場です。
あえて修行する必要などありません。
修行したいというのもひとつの欲望と拘りです。』

要は、煩悩を追うためにする苦労は心の糧とはならないが、煩悩を出し尽くしてなくすには必要であるということ。

まとめ

・来世も人として生きるには、中道であること。
・それ以上にお金があれば人のために使ってしまうこと。
・人のために使う方法がわからなければ、覚醒するか覚醒した者に託すこと。
・中道以下であれば、今あるすべてのものに感謝できるようになれば必要な物が与えられる。
・今あるすべてのものに感謝するとは、それが嫌なもの不都合なものであってもである。
・苦労にも心の糧とならなない苦労がある。しかし、煩悩をなくすにはそういう苦労も必要である。

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