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煩悩のあいうえお(4) 拘り(こだわり)

(4)拘り

欲望と同じく、拘りにも必要な拘りと不必要な拘りがあります。
必要な拘りとは、拘ることによってより良いものとなる拘りを言います。

ここでは不必要な拘りについてもう少し具体的をあげて、あるいは別の角度で述べていきます。

ああしなければならない、こうしなければならない
ああでなければいけない、こうでなければいけない
と思うことは、多々あると思います。
でも、それは自分がそう思うだけで、実際はそうでなくてもよいことはたくさんあります。

目次

お坊さん

30.お坊さん

本来、髪の毛は人間にとって非常に重要な物です。
頭を保護するという意味もありますが、
波動の科学から言えば「真実を告げる書」にある通り、波動のアンテナとなる物です。

お坊さんは修行のため、自らに苦を課しています。
ならば、本来、人間にとって重要な物を取り去ることによりハンデを設け、修行を辛くすると言う意味では、頭を丸めるということは理屈が合います。
しかし、髪の毛が波動のアンテナだと理解しているお坊さんは一人もいないと思います。

おそらく、最初に頭を丸めたお坊さんには、何らかの啓示があったと思います。
そのお坊さんは、その意味を知っていたのかも知れません。
だけど、いつしかその意味を知るものはなくなり、
お坊さんは頭を丸めるものだという固定観念だけが残ってしまったのです。
お坊さんの装束も同じことです。
最初は、私は修行していますということを示すために始まったものだと思いますが、
今は、それがユニフォームのようなものとなっています。
装束を見るだけでお坊さんと分かります。

お坊さんに限らず、他の宗教でも同じことが言えます。
ローマ法王の装束を見ていると、そこまでしなくても良いのではないかと思うぐらい豪華絢爛です。
イエスキリストが一度でもあのような装束をしたことがあるのでしょうか?
(日本のお坊さんでも格によって装束が違うようですが。)

最初は何か意味あるものから始まったとしても、
それが拘りとなって定着してしまったということです。
それがユニフォーム程度の拘りだと必要な範囲ではありますが、
ローマ法王の装束のようになると、欲望が拘りと連動して煩悩の雪だるまとなっています。
ローマ法王の悪口を言ってしまいましたが、
ローマ法王が神の代弁者なら「アハハ」と一笑に付して済むことです。

お坊さんの格好は、私はお坊さんとして修行をしていますと言うためのものとなります。
従って、お坊さんが悟りを開いたらお坊さんの格好はしなくなります。
でも、お坊さんは一生お坊さんです。
と言うことは、お坊さんとして生きていても悟りが開けないということです。
これは、すべての宗教について言えることです。
宗教に固執している限りは、何時まで経っても悟りを開くことはできません。

修行も欲と拘りなのです。
意識して、自ら過酷な修行を行う者もいますが、この世は意識してもしなくても修行の場です。
あえて修行する必要などありません。
修行したいというのもひとつの欲望と拘りです。

お釈迦さんが苦行を積んで悟ったことは、苦行を積んでも悟れないということを悟ったのです。
それを悟った途端、悟りを開いたのです。
ならば、苦行は必要ではないかと思われますが、
これは、苦行をしないと悟りを開けないという煩悩を出し尽くしたから悟りを開いたということです。
そういう意味では、苦行は必要です。

煩悩をなくすには二通りあるということです。
煩悩を出し尽くすか、煩悩を制するかです。

お経を唱える、写経する、いずれも同じことです。
それをしても悟りを開けるわけではありません。
そうすることによって、煩悩を出し切れればよいですが、
一生掛かっても出し切れない者は、悟りを開くことはできません。
それよりも、煩悩とは何かを見い出し制することの方がずっと大切です。

※補足
お坊さんは、世襲制でなられる方もおられます。
その場合、本当はなりたくないのだけど仕方なくやっているのだと言う人もおられると思います。
お坊さんに限らず、そういうことは他にもあると思います。
嫌なことでもしなければならないこの世ですが、嫌なことだから自分の心は修正される。

修行も欲と拘り
意識して、自ら過酷な修行を行う者もいますが、この世は意識してもしなくても修行の場です。
あえて修行する必要などありません。
修行したいというのもひとつの欲望と拘りです。

お釈迦さんが苦行を積んで悟ったことは、苦行を積んでも悟れないということを悟ったのです。
それを悟った途端、悟りを開いたのです。
ならば、苦行は必要ではないかと思われますが、
これは、苦行をしないと悟りを開けないという煩悩を出し尽くしたから悟りを開いたということです。
そういう意味では、苦行は必要です。

煩悩をなくすには二通りあるということです。
煩悩を出し尽くすか、煩悩を制するかです。

お経を唱える、写経する、いずれも同じことです。
それをしても悟りを開けるわけではありません。
そうすることによって、煩悩を出し切れればよいですが、
一生掛かっても出し切れない者は、悟りを開くことはできません。
それよりも、煩悩とは何かを見い出し制することの方がずっと大切です。

※補足
お坊さんは、世襲制でなられる方もおられます。
その場合、本当はなりたくないのだけど仕方なくやっているのだと言う人もおられると思います。
お坊さんに限らず、そういうことは他にもあると思います。
嫌なことでもしなければならないこの世ですが、嫌なことだから自分の心は修正される。

お坊さんまとめ

・地球人は、過去の概念にとらわれるあまり、しなくても良いことをしなければいけないものと捉えてしまう。
・最初は意味あったことが、いつしかその意味を知る者はなくなり、固定観念だけでそうしていることが多々ある。
・宗教に固執している限りは、何時まで経っても悟りを開くことはできない。
・修行も欲と拘りから来る煩悩である。
・しかし、その煩悩を吐き出すためには修行も必要である。

葬式

31.葬式

式と名のつくものには、これはこうでなければならないという拘りが多いです。
典型的な例として葬式について述べてみます。

まず、葬式は必要と思いますか?
答えは、Noです。
人が死んだら速やかに死体を処理して成仏するように願うだけでよいのです。
それ以外の事は、拘りと自己納得・自己満足あるいは見栄です。
すべて煩悩です。

地球人は、死に異常な恐怖を覚えます。また、悲しみを持ちます。
でも、死とは何かを、そして死後はどうなるのかを正しく理解すればそれはなくなります。

まず、心と肉体はまったく別物であることを認識して下さい。
特に、地球人の肉体は筋書きとして特別にあてがわれたものです。
そして、心もあてがわれたものです。
地球人には顕在意識と潜在意識があります。
今、あなたが自分と思っている心は、顕在意識にある筋書き上あてがわれた仮の心です。
本当のあなたの心は、潜在意識にあります。
しかし、例外を除いては、潜在意識にある本当の心を意識することはまずありません。
私は覚醒していますので、潜在意識にある本当の自分を意識しながら顕在意識の心を自分として生きています。
覚醒はしていないが、潜在意識を自分としている人も世界中には何人かはおられるようです。
潜在意識にある本当の心は、顕在意識にある心から比べると、大概は非常に優れた能力を持っています。
従って、潜在意識の心が顕在化すると超人的な能力を発揮したり、優れた人間性を発揮できます。
しかし、これでは筋書きが成り立ちません。
だから、顕在意識というできの悪い仮の心を設け、あたかもそれを自分としているのが地球人なのです。

死ぬということは、肉体だけが機能しなくなるということです。
心は、無くなるということはありません。
余程馬鹿なことをし続けるか、抹消されない限りは永遠不滅です。

肉体が機能しなくなると心は肉体から出て行かざるをえなくなります。
肉体が機能していても肉体から出て行く人も希にいます。(幽体離脱)
肉体を持たない心は、霊(魂)と呼ばれます。
霊となった心は、すぐさまあの世へ引き上げられる者から、
しばらくこの世を彷徨ってからあの世へ引き上げられる者、
自殺や未練・怨念が強くて、この世に残る者と色々です。
中には、一旦肉体から離れて再び肉体に戻り、生き返る者もいます。
死んでから49日以内に、あの世へいけないとこの世を彷徨うことになります。

突然の事故で死んだ者は、しばらくの間は自分が死んだことが分からない場合もあります。
交通事故などで死ぬと、事故現場にたいそうな供え物をすることがありますが、あれは逆効果です。
かえって未練を与えてしまいます。
「あなたはもう死んだのだよ、この世に生きる者ではないんだよ、迷わず成仏して下さい」と願うことです。
「帰ってきて下さい」と願ってはならないです。

あの世というのは、地球の周りを東西南北に囲んでいる四つの巨大宇宙船のことです。
この宇宙船は、地球の世話をしている宇宙人の基地でもあります。
私たちは、寝ている間に夢を見ますが、これはメモリーの整理です。
死んだ者は、この宇宙船でメモリーの整理を行います。
つまり、夢を見ます。
そのとき、この世での行いの如何により
天国のような夢を見る者もいれば、地獄のような夢を見る者もいます。
あの世には、本当の地獄はありません。
地獄があるとすれば、この世のことです。
メモリーの整理が終わると、次にまたこの世に生まれ出る準備・待機をします。
しかし、今はもう最後の審判が始まっていますので、
生まれ変わることなく自分が生まれた星へ帰る者もいます。

あの世とこの世に居る心の総数は、一定です。
今、地球の人口は70億以上と非常に多いです。
従って、あの世に居る心の数は、かなり少ないです。
それでも、まだ地球の人口は増加しています。
だから、今死んだ者は生まれ変わるとすると、すぐに生まれ変わることになります。
あの世の心の数がゼロに近くなったぐらいで、人類史上なかった大艱難(大惨事)が起こります。
これにより地球の人口は激減していきます。

話しがそれました。
死んだところで、肉体がなくなるというだけで本人の心は消滅しません。
心さえあれば、肉体が必要となればいつでも持つことができます。
詳しいことは、Part4[心]をお読み下さい。

と言うことで、死んでもまた生まれ出て来ることはできますので
怖いことも悲しむこともないです。
ただ、成仏できないと問題です。
特に、成仏できない霊の中で強い怨念を持った者は、
悪霊となってこの世を彷徨い様々な悪さをします。

今は、地球人の心もだいぶ浄化され、
過去にあるようなむごい死に方をする者は少なくなりました。
過去を見ると、飢え死に、のたれ死に、戦死、切腹、首切り、釜ゆで、火あぶり等々
残酷な死に方をした人はたくさんいたと思います。
ゆえに、化けて出たり悪霊となって悪さをすることが絶え間なかったと思います。
それが故、人が死ぬと成仏できるように迷信も含め色々と工夫したわけです。
その名残が今の葬式となって受け継がれているのです。

普通の状態で死んだ者は、まず間違いなく成仏できます。
そういう人は、葬式など不要です。
特に人間性の良い者で穏やかに死んだ者は葬式する間もなく、
すぐにあの世へ連れて行ってもらえます。
憎しみ恨みの強い者やこの世に強い未練が残る者は、
素直に成仏しないかも知れませんので、
丁重に葬りそれなりの能力を持った人に成仏させてもらう必要はあります。
その人その家の信仰に応じて、お坊さんや神主さんに依頼すれば良いと思います。
そういう意味だけの葬式ならば煩悩ではないです。
こういうときこそ、念仏読経や祭詞奏上は、言霊(ことだま:言葉の念波動)となり効果があります。
極悪人だからと言って、この世に悪霊として残るわけではありません。
残るのは、憎しみ恨みの強い者や心の弱い者やこの世に強い未練がある者なのです。

葬式は要らないとわかっていても、それを説得できるだけの力がなければ周りから白い目で見られることになります。
そうなると、かえって生きづらくなります。そのときは「郷には入れば郷に従え」です。

※参考
死ぬと心だけになりあの世へと行くわけですが、
このとき顕在意識にある心と潜在意識にある心は、普通はそのまま一体化します。
悪霊が憑いていても一体化するときもあります。
一体化しない悪霊は、また別の人について悪さをすることになります。
顕在意識にある心は、潜在意識にある本当の自分の心に付加されるということです。
そうやって、自分の心を大きくするのです。
大きくすると言っても、この世に居る間に散々に、心を小さくするような行いをしている者は、顕在意識にある心を付加しても結果的に大きくなるとは限りません。

葬式まとめ

・式と名のつくものには拘りが多い、葬式はその典型である。
・死とは何かを理解できていれば、葬式は不要なものであるる
・心と肉体は別のもの、機能していない肉体は速やかに抹消すること。
・それよりも肉体から離れた心をあの世に行けるように願うこと。
・あの世とは地球の周りを東西南北に囲んでいる四つの巨大宇宙船のこと。
・ここでメモリーの整理をして、再びこの世に生まれ変わる準備をするが、
生まれ変わることなく自分がもと居た星に帰る者もいる。
・憎しみ恨みの強い者やこの世に強い未練が残る者は、悪霊となってこの世で悪さをする。
・葬式は要らないとわかっていても、「郷に入れば郷に従え」である。

過去

32.過去

時間に拘ることは、多々あると思います。
その中で、過去に拘ることについて述べてみます。
「過去に拘る」を言い換えれば「悔やむ」となります。
「あのときああしとけば良かった」「この道に進まなかったらよかった」
と言って未だに悔やむようなことはありませんか?

でも、過去のことをいくら悔やんだところで物事がよくなるわけがありません。
悔やめば悔やむほどストレスとなって、自分の体を傷付けます。
何も良いことはありません。
でも、悔やんでしまいます。
思えば思うほど悔やんでしまいます。

人を傷つけたり迷惑を掛けたりすると特にそうなるものです。
これは理性が正常に働いている証拠です。
理性が働かない者は、人を傷つけたり迷惑を掛けたりしても苦にならなくなります。
ひどいと、それを楽しむ者もいます。
これは脳の病気です。
でも、病気だからどうしようもないということはありません。
治そうという意志があれば治っていきます。
自分も周りも尽力あるのみです。
その意志が大切です

話がそれました。
こういうときは、考え方を変えて下さい。
まず、それが本当に失敗だったのか、あるいは人に迷惑を掛けただけなのか熟考してみて下さい。

「失敗は成功のもと」という諺があります。
失敗することによって成功に導かれるということです。
また、失敗することによって気が付くことはたくさんあります。

Part4[心]語録に次のような言葉があります。
『心ができるまでは、成功することよりも失敗している方が、得られることは大きい。』
『この世で失敗などあり得ない。全て筋書き通りである。
 失敗と見せかけて、成功への布石を作っているのである。』

私も過去には数多くの失敗をして来ました。
今でも馬鹿なことをしていると思うようなことがあります。
失敗すると、自分も嫌な目をしますが人にも迷惑を掛けます。
できれば、失敗することなく人生を過ごしたいものです。
でも、何も失敗なく順風満帆に事が運んでしまうと得られるものは限られてしまいます。
そう考えれば、失敗した方がかえって良かったということになります。

失敗して得られることは自分に関してだけでは無いです。
人は迷惑を掛けられると(人によっては掛けられなくても)、相手を叱責したり非難したり軽蔑したり罵声を浴びせたり誹謗中傷したりと色々と責め立てます。
でも、これは人として決してあってはならない感情から来る煩悩です。
つまり、失敗する人は自分を犠牲にして人の煩悩を吐き出させているということになります。

どれだけ、失敗なく生きようと思っても失敗するときは必ず失敗します。
それは、筋書きとしてそうなっているからです。
馬鹿なこともしなければならない筋書きを自ら書いているわけです。

過去にどれだけの失敗・過ちを犯していようが、これからが良くなればそれで良いのです。
今、どれだけ優秀な人間性を持っていても、それ以上に成長しなかったらそれで終わりです。
神の如くなるまでは、己の人間性を高めていくこと、それには失敗することも必要なのです。

※参考
本当の人間は、全知全能ですので失敗することはありません。
ただ、神と同じくイタズラは好きです。
失敗と見せかけたようなイタズラもあります
この世の筋書きも色々とイタズラが仕組まれています。
グレーなる宇宙人、面白いですね。
それと、霊界の霊もイタズラ好きですのでご注意ください。

過去まとめ

・「過去に拘る」を言い換えれば「悔やむ」となる
・悔やんだところで物事は良くならない。失敗することによって得られるものの方が大きい。
・失敗する人は自分を犠牲にして人の煩悩を吐き出させているということもある。
・失敗・過ちを犯しても、それで心が成長すれば良い。

未来

33.未来

このときにはこうしなければいけない、
いついつまでにこれをしなければいけないと、未来に拘ることも多いと思います。
農作業のような天候に左右されるものは、拘らないことにはいられないですが、
本当にそのときにそうしなければいけないのか、あるいはそのときまでにやり遂げないといけないのかと、疑問に思うことはたくさんあると思います。

その多くは、形式的・慣習的・付和雷同的なことと思いますが、
たとえそれが楽しいことであっても煩悩の放出に過ぎない場合もあります。

今の地球人の喜怒哀楽は、本当の人間の持つ喜怒哀楽ではありません。
これは、日蓮聖人が「八風」という言葉で解説しています。
詳しくは、Part4[心]をお読み下さい。

地球人の喜怒哀楽が本当の人間の持つ喜怒哀楽ではないということは、
本来、喜び楽しみとすることが喜び楽しみとならず、
本来、喜び楽しみでないことを喜び楽しみとしていることになります。
また、本来、怒ること哀れむことをプラス思考すれば生きる喜びとなることが、
マイナス思考するばかりで苦悩を生むものとなっています。

これでは「足を知る」ことはできません。
いまあるものに満足するには、本当の喜び楽しみとは何かを見いださなければなりません。
それができないがゆえに、間違った喜び楽しみを追っているのが今の地球人です。

この世では、色々な行事が執り行われます。
個人的なら、誕生日、クリスマス、結婚式など、このときこうしようああしようと様々な行いをします。
中には、商業経済の産物して行われるものも少なくはありません。
そのようなことを楽しみとしておられる方は多いと思います。
でも、そのようなことを楽しみとすればするほど、楽しみを追うことになります。
現状に満足できない者は、何をどれだけ与えられても無限の欲望を追い続けなければいけません。
と、私がいくら言い張ってもそう簡単に理解できることではありません。
それまでは、不必要な欲望を追い続けるしかありません。
そして、本当の人間が抱く喜び楽しみがどのようなものか悟ることができたとき、
そのようなことは楽しみと思わなくなります。

※参考
八風という言葉は、以前に私が創価学会に半年ほど居たときに教えてもらった言葉です。
でも、創価学会の人たちは言葉として理解していても本当の意味を知っている人は
居なかったと思います。
何故なら、この意味を理解できたら創価学会を辞めるでしょうから。
と言うことで、その時点で私も創価学会を辞めました。
宗教は、神仏の教えを請うには一時的には有り難いところです。
しかし、地球人の教えも請うことになりますのでご注意下さい。

『神仏を信じることと宗教を信じることは別のことである。
宗教をどれだけ信じても神仏を信じるとは限らない。』
『宗教は地球人が作ったもの、神仏が作ったものではない。』
Part4[心]語録より

未来まとめ

・命より健康であることの方が大切である。
肉体が何度でも得ることができる。
ならば延命に拘ることはない。
死を選べば良い。
だが、ここは地球、宇宙論は通用しない。
地球論に従うしかない。
・苦があるからこそ、心は修正される。
どれだけ苦しくてもあなたの書いた筋書き通りにしかならない。
死にたいと思っても死ねない。死にたくないと思っても死ぬのである。

延命

34.延命

現代医学の発展は著しく、過去においては死に至った怪我や病気でも回復させてしまうようになりました。
だが、延命に拘る余り、患者さんにさらなる苦しみを与えてしまう結果にもなっています。
死を恐れ死にたくないと願ってる患者さんには、それも必要かも知れません。
しかし、当の本人がそれを拒否するならば、
その通りにしてあげることが人の道であることを理解しなければいけません。

人が死ぬと言うことは、一時的に肉体が無くなると言うだけで本当に死ぬわけではありません。
心は、永遠に存在します。
肉体は無くなっても、何度でも新しい肉体を得ることができます。
そうであるならば、延命よりも死んで生まれ変わったほうが楽ではあります。
また、これ以上、周りの者に迷惑を掛けることもありません。

医者という立場の者は、これまた患者さんを死に至らしめることをひどく嫌悪し拒否します。
命を救えなかったことに、耐え難い無常感・責任感を抱くものです。
(非難されるのがいやだからという医者もいるかも知れませんが)
命を救うのが医者であると言うことから見れば、それも間違いではありません。
でも、健康にするのが医者であれば、それは間違いとなります。
命が大切と言う意味を履き違えているのです。

『命だけ長らえることは苦しみを増すだけである。苦しみが必要ならそれもまた必要だが。』
『命より健康、健康を守れば否応無しに命は延びる。』
『命は大切なものと言いながら、命を粗末にしていることばかり。
(酒・タバコ・飽食・不規則な生活…)』
Part4[心]語録より

その人に、まだ苦しみが必要であるならば、何としてでも命を長らえてあげれば良いし、
もう苦しみが必要でないならば、死を選ばしてあげれば良いのです。
但し、法を犯してまでそうする必要はありません。
その場合、その法を作った者が、因果を背負うことになります。
ここで注意して欲しいのは、周りの者の意思で命を長らえ苦しみを与えた場合は、周りの者の心が縮小し、死ぬ者の心が大きくなるということです。
いかなる理由であっても、苦しみを与えた者の心は縮小し、与えられた者の心は大きくなるということです。
合法的であってもです。

とは言いましたが、現実的には、死を選ぶことはまず不可能です。
この世は修業の場、苦しみがあるからこそ修行になります。
そういう意味では、命を長らえることができるならば、一分一秒でも命を長らえ苦しみを受けなさいということです。
従って、死を選ぶことができない筋書きとなっているわけです。

相反することを言いましたが、こころのところよく理解してください。
宇宙論と地球論の違いです。
人の心として正しいのは宇宙論ですが、今は筋書き、地球論のほうが優先するということです。

中には、邪魔だから早く死んでほしいと思っている者もいるかも知れません。
でも、今、あなたが邪魔だと思っているもの(嫌うもの)は、本当はあなたにとって必要なものなのです。
邪魔と思うものがいるからこそ、あなたの心は修正されているのです。
そのものが必要でなくなったとき、そのものは否応なしに去っていくか、自分自身の力で振り払うことができるようになります。
(ここでいう「もの」は、人以外のものも含まれます。)

人の死を願うのは、あくまでも相手のために願わなければなりません。
自分のために人の死を願う者は、恐ろしく醜い心を持っていると思ってください。
これも、合法的であっても言えることです。
例えば、ビンラディン氏が殺害されましたが、殺害したことは筋書き通りですので間違いではないです。
その死を喜ぶことも間違いではないですが、何故に喜ぶかによって天地の差が生じます。
ここではあえて答えは出しませんので、ご自身で考えてみてください。

何故にあなたがこの世に生まれて来たのか考えると別のことが見えてきます。
あなたは、この世に生まれる前には、この宇宙の何処かの星で人生を送っていたのです。
だけど、あなたに何かいけない心があり、その心を修正するためにこの世に生まれて来たのです。
その修正が終わるまでは、自分のもといた星に帰ることは許されません。
この世で幾度となく生死を繰り返し、修正を終えてやっと帰ることが許されます。
生死を繰り返すのは、1回の生まれ変わりでは心を修正できないからです。
最低、数回、多いと何百回と生死を繰り返し心を修正するのです。
そして、あなたの一生はあなたの書いた筋書き通りに終わるのです。
だから、あなたがどれだけ死にたいと思ってもその筋書きが終わるまでは死ねないし、
逆に、どれだけ死にたくないと思っても死ぬときは死ぬのです。
死ぬときは死ぬという言い方は、余り良くありません。
もう、死んでも良いから死ぬということです。

※参考
「超能力者となるには」の動画にある通り、
私は例外で、この世には前世も来世もありません。
この世には、皆様方のお手伝いとして生まれ来ただけです。
でも、人の苦を知るには自分も苦を味わう必要があります。
それで一通りの苦労はしてきました。
未だに肉体的な苦がありますが、これも皆様方の苦を知るには必要なものです。
このブログの冒頭で述べたように、今ある私の肉体の苦は、アセンションに向け地球の波動が変化しているがために起こるものです。
これから皆様方にも掛かる苦です。
現代医学では解明できない症状です。
先に私が体験することにより、皆様方の手助けとすることができます。

『自分に苦があっては、人の苦を取ることはできない。
だが、人の苦を知らないことには人の苦を取ることはできない。
人の苦を取る者はありとあらゆる苦を知らなければならない。』
Part4[心]語録より

延命まとめ

・命より健康であることの方が大切である。肉体が何度でも得ることができる。ならば延命に拘ることはない。死を選べば良い。だが、ここは地球、宇宙論は通用しない。地球論に従うしかない。
・苦があるからこそ、心は修正される。どれだけ苦しくてもあなたの書いた筋書き通りにしかならない。死にたいと思っても死ねない。死にたくないと思っても死ぬのである。

思い込み

35.思い込み

これはこうしなければいけない、これはこういうものだと思いこんでいると、
他にいくらでも良い方法や新しい方法があっても気が付かないものです。
一つのことにとらわれると、ああでもないこうでもないと苦悩の日々を送ることがあります。
言葉を換えると、先入観・固定観念は思考・発想の妨げとなります。
と言っても、そういう煩悩を持っている者は、そういう煩悩がなくならない限り気がつかないものです。

そして、その煩悩が消え失せたとき、何らかのヒントが偶然に、
あるいは他から与えられ、解決するという筋書きはよく見かけます。

自分のやっていることがうまく行かないときは、他にもっと良い方法があるというように考えて下さい。
但し、良い方法であっても他の条件が揃っていないがためにうまく行かないこともあります。
その場合は、他の条件が揃うまで待つしかありません。
その条件には時間的なものも含まれます。
例えば、今、私の言っていることを多くの人々に理解してもらうにはまだまだ時期尚早です。
事が起こり始めないことには、私の言っていることに耳を傾ける人は少ないです。
でも、必ず先駆者がいて物事は始まります。
誰かは事が起き始めるまでに事を掌握あるいは予測しておく必要があります。
でも、大概、先駆者というのは非常な苦難を伴うものです。
地動説を唱えたコペルニクスやガリレオは、さぞ辛い思いをしたことと思います。
しかし、先駆者の苦労があって先が開かれます。
そういう立場におられる方は辛い思いをしますが、めげずに頑張って下さい。
と言わなくても、それが正しいことであればめげることもないと思います。
また、正しいことは、いずれは日の目を見ることになります。

この場合の苦悩というのは、自らの煩悩による苦悩ではありません。
人様からもらう苦悩です。
こういう苦悩を乗り越えた者は、飛躍的に心は成長します。

うまく行かないことを後々見れば、あのときうまく行かなくて良かったということがあります。
私の場合、平成元年に覚醒してからは、特にそれが甚だしいです。
過去を振り返ると強い煩悩に苛まれ、一時は死んだ方がましだと思うようなこともありました。
でも、これはまったくのマイナス思考です。
マイナス思考すればするほど悪い方向へ連鎖して行き、煩悩の固まりとなってしまいます。
自分で自分の苦しみを増長していることになります。
こうなると人によっては(そのことだけしか見れない人は)自殺も辞さないことになります。

嫌なこと苦しいことは、自分の心を強くしてもらっているときです。
また、自分が苦しむことによって人が救われるのです。
そう思えば、苦しみも有り難いことです。
それを乗り越えれば、光り輝く心となり人々の心を照らし出すことができます。
どんなに嫌なこと辛いことがあっても、自分を良くし他のために生きようとするならば必ず救われます。
(その逆に、自己中心のままでいると、本当に駄目な心となってしまいます。)

思い込みまとめ

・思い込みという煩悩が消え失せたときに、何らかのヒントが偶然に、あるいは他から与えられ、解決する。
・自分のやっていることがうまく行かないときは、他にもっと良い方法があるということ。
・良い方法があっても、他の条件が揃うまで待つしかないこともある。
・うまく行かないときは、うまく行かない方が良いということ。後々、それで良かったというときが来る。

拘りまとめ

36.拘りまとめ

■拘りには、欲望と同じく必要なものと不必要なものがあります。
必要な拘りは、私たちの生活を豊かにし潤いを与えてくれます。
不必要な拘りは、自分で自分の首を絞めるようなことになり、苦を招く原因となります。
でも、この世の苦は心を浄化するための大切な要素です。
だから、今は不必要な拘りであってもそういう意味では必要な拘りとなります。
見渡せば、そういう意味での必要な拘りは一杯あります。

■でも、気が付いた者から苦を招くようなことはやめなければいけません。
しかし、それが個人的なことでなく全体を改革しなければいけないときは大変な労力を要します。
かえって生き辛くなるときは「郷には入れば郷に従え」です。
しかし、改革できると思えば改革すればよいです。
たとえ、それが一生の間でできなくても構わないです。
あなたの労力は決して無駄になることはありません。

■過去に拘ると悔やむことになります。
過去のことはこれからの糧とすればよいです。
過去がどうであれ、これからが良くなればそれで良いのです。

■欲望と拘りは連動するものです。
ああしたい こうしたいが、ああでなければいけない こうでなければいけないとなり、
煩悩の放出にブレーキが掛からなくなります。
今、自分のしていることが本当に必要かどうか、考えてみてください。

■固定観念・先入観を無くして下さい。
今あること、今ある物を当たり前と思わず、常に疑問を持つことです。

■物事を一面的に見るのではなく多面的に見てください。
特に現代科学は、筋書きのために特別に作られた科学です。
現代科学だけで物事を考えても、真実は見えてきません。
進化論という天動説的発想を信じることにもなります。
これでは、UFOや宇宙人や生まれ変わりなどの謎を解くことはできません。
天国などありえない、人は死んだら終わりという、つまらない発想しかできません。

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