Blog 煩悩のあいうえお
煩悩のあいうえお(3) 欲望
それでは、何が煩悩なのか具体的に例を挙げていきます。
Part4[心]を読まれた方は、既にご存知のことと思いますが、
煩悩を大きく分けると欲と拘り(こだわり)と感情の三つに分けられます。
まずは、欲望という煩悩から説明していきます。
これもPart4[心]を読まれた方はご存知と思いますが、欲望は同じ欲望であっても、その時々に応じ必要な欲望ともなり不必要な欲望ともなります。
この不必要な欲望というのが、すべて煩悩となります。
目次
- ○ 食べること
- ・食べることまとめ
- ○ 五感
- ・五感まとめ
- ○ 自然
- ・自然まとめ
- ○ お金
- ・お金まとめ
- ○ 仕事
- ・仕事まとめ
- ○ 贅沢
- ・贅沢まとめ
- ○ お金を得る
- ・お金を得るまとめ
- ○ お金の苦労
- ・お金の苦労まとめ
- ○ 目に見えない欲望
- ・目に見えない欲望まとめ
- ○ 充実感、達成感
- ・充実感、達成感まとめ
- ○ 競い合う
- ・競い合うまとめ
- ○ 負の欲望
- ・負の欲望まとめ
- ○ 優劣の差
- ・優劣の差まとめ
- ○ 能力
- ・能力まとめ
- ○ 容姿
- ・容姿まとめ
- ○ 試験
- ・試験まとめ
- ○ 崇める
- ・崇めるまとめ
- ○ 商業経済
- ・商業経済まとめ
- ○ 納期
- ・納期まとめ
- ○ 競い合うまとめ
- ○ 子供が欲しい
- ・子供が欲しいまとめ
- ○ セックス
- ・セックスまとめ
- ○ 売春買春
- ・売春買春まとめ
- ○ 依存症
- ・依存症まとめ
- ○ 煩悩のあいうえお 欲望「まとめ」
食べること
わかりやすい例として、食べることについて説明します。
食べなかったら死んでしまいます。
(インドのプララド・ジャニさんのように食べなくても良い人もいますが)
となると、食べたいと言う欲望は、必要な欲望です。
しかし、必要以上にあるいは必要でないものを摂取すれば身体に負担を掛けます。
度を超せば病気にもなるし、自らの命を縮めることにもなります。
さらに度を超すと、食材の乱獲により自然をも破壊してしまいます。
身体を維持する以上に食べようとする欲望は、不必要な欲望つまり煩悩と言うことです。
元来、食べ物はおいしくできています。
何故、おいしいのかというと、食べなくてはいけないからです。
必要なものであっても、まずければ食べることができません。
だから、おいしくできているのです。
しかし、ここに煩悩が働くと、おいしいから食べるという本末転倒が生じます。
食べるのはあくまでも身体を維持するためと言うことを忘れてはいけません。
それを踏まえて、極力おいしく食べればよいのです。
まずい物を無理して食べる必要はありません。
それと、それが必要なら何を食べてもかまいません。
但し、自然の摂理を崩すことがあってはならないのは言うまでもありません。
それと、生き物を捕るときや殺すときには、苦しみを与えないことです。
食べることまとめ
・欲望は同じ欲望であっても、その時々に応じ必要な欲望ともなり不必要な欲望ともなる。
・不必要な欲望というのが、すべて煩悩である。
・食べたいという欲望は、身体を維持する上には必要な欲望である。
・身体を維持する以上に食べようとする欲望は、不必要な欲望つまり煩悩と言うことである。
・食べ物がおいしいのは、食べなくてはいけないからおいしくしてあるのである。
・それが必要なら何を食べてもよいが、自然の摂理を崩さないこと、苦しみを与えないことである。
五感
食べることに限らず五感に溺れるような行いは、すべて煩悩と言うことが言えます。
人間の五感は実に繊細で巧妙にできています。
豊かな感覚を享受することができます。
五感は快感を生みます。
気持ちよい、心地よいと感じます。
至福を味わうことができます。
それだけに、自制心のない者は、その感覚に溺れてしまうことになります。
逆に言えば、人間として生きる者は、絶対的な自制心が必要と言うことなのです。
五感を満喫することは悪いことではありません。
むしろ、人間として備わった能力を大いに使えば良いのです。
問題は、そうしたときに必要以上の物を欲求しているかどうかなのです。
それが必要以上の欲望かどうかの判断は、そう難しいことではありません。
つまり、その時は良くても後々悪い結果となって返って来るものは、
まず不必要となものと判断すればよいです。
特に、快楽を追う行為は、自分の身体に顕著に返ってきます。
(このことについては、Part4[心]で説明してあります。)
五感まとめ
・五感を満喫することは悪いことではない。
・しかし、それには絶対的な自制心が必要である。
自然
最も長いスパンで後々悪い結果となって返ってくるものはというと、自然です。
自然をないがしろにしていると、いずれとんでもない目に遭うのは必至です。
その一つとして、
医学が発達した反面、人口増加による弊害が顕著になってきています。
今の地球の人口では、地球の自然は持ちません。
増えすぎた物には歯止を掛けるのが自然のシステムです。
増えすぎた物を減らそうとするように自然が働きかけます。
近い将来、地球人そのものにその働きかけが生じます。
(既に始まっていますが。)
でも、ご心配なく、
煩悩を無くそうとする者は、その災いから逃れることができます。
何故なら、煩悩を無くす者は、自然を守ることができるからです。
自分を守ってくれる者を排除しようとする愚かな者はいないと思います。
(地球人には逆恨みする者がいますのでそうは言い切れないですが)
自然も同じことです。
※参考
現代科学では自然は自然に構築されたとしていますが、
私たちの住む地球の自然は、エロヒムと呼ばれる異星人によって創造されたものです。
つまり、本当の人間とは、自然を創造するだけの能力を持っていると言うことです。
来世も人間として生きる方ならそう思えるはずです。
何故ならば、あなたがもといた星では、あなた自らその星の自然を創造してきているからです。
潜在意識には、その記憶が残っていますのでそう思えるのです。
自然まとめ
・増えすぎた物には歯止を掛けるのが自然のシステム
・近い将来、地球人そのものにその働きかけが生じる。
お金
この世には、お金というものがあります。
それは、皆が人として正しい心を持っていないからです。
本当の人間は、誰が得した誰が損したと言うことはありません。
まして、独り占めしようと思うことは、決してありません。
皆が平等になるように、自分の物を分け与えようとします。
自分だけが得すると言うことを、非常に嫌います。
だから、皆が本当の人間になったらお金は不要です。
今の世の中は、お金があれば大概のことは可能となります。
逆に言えば、お金がないことには何もできません。
生きて行くことさえできなくなります。
だから、人はお金を得るために行動を起こします。
お金を得るためには、手段を選ばない人もいます。
犯罪に走る人もいます。
それはさておいて、
本来、仕事というのは皆の生活が豊かになるためにするものなのですが、
この世では、お金を得るために仕事をしているのが実情です。
これもおいしいから食べるのと一緒で本末転倒しています。
すなわち、この世の仕事は、否応なしに煩悩を動機として行われているのです。
お金よりも仕事が好きだからという方もおられるかも知れませんが、
それは、本当の人間として生きる者の動機としては当てはまりません。
それを動機とする方は、人間そのものではなく人間の眷属として生きる方です。
本当の人間は仕事を生きがいとはしません。
本当の人間にとって仕事とは、責務と表現すれば良いかと思います。
したいからするのではなく、しなければいけないからするものです。
人間の眷属として生きる方は、
自分の得意とすることや好きなことだけをしていたら良いようになっています。
違った目で見れば、責任の範囲が限られていると言うことです。
人間として生きる者は自然をも創造しますので、その責任の範囲は膨大です。
能力あればあるで、負担も大きいと言うことです。
お金まとめ
・本当の人間にはお金は不要である。
・本来、仕事というのは皆のためにするものであるが、この世ではお金を得るためにしている。
・すなわち、この世の仕事は、すべてが煩悩が動機である。
仕事
この世では、仕事とは主にお金を得る労働を指します。
お金を得ない労働はボランティアと呼ばれます。
でも、お金のない世の中では、その区別がなくなります。
「ただ働きなんか絶対いやだ。」と仰る方には、
お金のない世の中は想像つきがたいものになります。
でも、お金のない世の中こそが本当なのです。
お金に限らず、何らかの見返りを期待して行動を起こすことはあってはならないのです。
「見返りを期待する」を別の言葉で置き換えると「魂胆がある」となります。
見返りを期待するということは要らぬ欲望、つまり煩悩なのです。
この宇宙には、因果応報という大法則があります。
見返りを求めなくても、人のため世のために施しをした分は、
必ず何らかの形で返ってきます。
逆に施しを受けたら必ず返す必要があります。
ただほど怖い物はないと言う理屈がこれにあたります。
今は、お金のある世の中ですので、お金で返せばよいです。
お金で返せない人は、別の形で返しても構いません。
詳しくは、Part4[心]をお読み下さい。
仕事まとめ
・お金のない世の中こそが本当である。
・お金に限らず、何らかの見返りを期待して行動を起こすことはあってはならない。
・人のため世のために施しをした分は、必ず何らかの形で返って来る。
・逆に施しを受けたら必ず返す必要がある。ただほど怖いものはない.
贅沢
贅沢をしたい、お金が欲しいと思うのは、誰しも思うことです。
私でもそう思います。
問題は、そうしたときに皆が同じように享受できるかどうかです。
それが自分だけしか享受できないものであるならば、不要な欲望つまり煩悩であることが多いです。
例えば、豪邸に住みたいと思うのは誰もが思うことだと思います。
何をもって豪邸とするかは、人それぞれの価値観によって異なります。
文字通り、贅を尽くした建物が良いと言う者がいれば、実用的で快適な家が良いと言う者もいるでしょう。
私だと、自然の波動を一杯に浴びられる自然と一体化した家が理想です。
と思っても、この世ではお金が無いことには何も実現できません。
でも、この世のシステムから見ると、皆が一様に何不自由ないお金を持つことは不可能です。
豪邸に住めるようなお金を手にする者は、ほんの一握りです。
ここで一考です。
もし、自分が何不自由ないお金を得たとしたらどうします。
豪邸を建てますか?
先に答えを言えば、したくてもできないですね。
何故かというと、自分だけいい目しても楽しくないからです。
豪邸に限らず、自分だけしか享受できないような物を手に入れても、
それができない人のことを思うと楽しくなくなります。
それが人としての本当の心なのです。
逆に、自分しか所有してないことを喜びとする者がいます。
これは全くの煩悩です。
自分の物と言う考え方はなくさなければいけません。
自分の物と言えば、自分の心だけです。
肉体も自分の物ではありません。
詳しくは、Part4[心]をお読みください。
話はそれますが、何不自由ないお金を持ったとしても、幸せになるとは限りません。
幸せと思うのは自分ですので、自分が幸せを感じられるだけの心にならないと幸せにはなれません。
幸せについては、Part4[心]に詳しく述べてありますが、ここで少し補足をしておきます。
煩悩がある限りは、本当の幸せは得られないと思って下さい。
煩悩がある限りは、幸せと思うことはすべて偽りの幸せです。
自分には煩悩が無いと確信できたとき、本当の幸せとは何かが分かります。
贅沢まとめ
・自分しか享受できないようなものを手に入れても、それができない人のことを思うと楽しくなくなるのが、人としての本当の心である。
・自分しか所有していないことを喜びとするのは全くの煩悩である。
・煩悩がある限りは、本当の幸せは得られない。
・煩悩がある限りは、幸せと思うことはすべて偽りの幸せである。
お金を得る
お金を得ようとする欲望は悪いことではありません。
問題は、自分が必要とする以上にお金を欲求しているかどうかです。
その人が必要とする金額は、その人が何をしようとしているかによって決まります。
日々の暮らしに不足しない程度のお金で十分な者もいれば、
何億何十億と必要とする者もいます。
人々のために大きな事業を展開しようとするならば、何百億と必要とするかも知れません。
今あなたが余りあるお金を持ってるいるならば、
それは己の煩悩を吐くためにあるのか、それとも人のためにあるのかです。
お金に限らず、どんな欲望にも言えることですが、
自分の持つ不必要な欲望を抑えきれない人は、その欲望を吐き出すしかありません。
金欲が強い人は、その欲が深ければ深いほど大金持ちになれるようになっています。
逆に、その欲望を抑えられる人は、何をやっても失敗ばかりしてお金を得ることができません。
借金の山を作ってしまうかも知れません。
苦難の連続となりますが、そういう人が人のために生きられるだけの心を持ったとき、
必要とするだけのお金を得ることができます。
人のために生きるには、必ずしもお金は必要とはしないかも知れません。
そういう場合は、日々の暮らしに不足しない程度のお金しか入ってこないことになります。
もし、それ以上のお金が入って来たら、それは人のため世のために使いなさいと言うことです。
どれだけお金が入ってきても、
自分のために使うお金は、日々の暮らしに不足しない程度のお金にしておくことです。
この世をすべて見渡せば、それは理解できるでしょう。
お金を得るまとめ
・お金を得ようとする欲望は悪いことではない。
・お金を誰のためなんのために得ようとするかによって煩悩となる。
・金欲が抑えきれない人は、得てして金運が良いようになっている。
・その逆に金欲を抑えられる人は、金運には恵まれれない。
しかし人のために生きられる心となったとき、必要とするお金を得ることができる。
お金の苦労
お金で苦労している人は多いと思います。
ここで一考です。
生きて行く上に必要なお金さえ得られれば良しとしたらどうなりますか?
これでお金で苦労することは激減すると思います。
あれが欲しいこれが欲しいと思うから苦労するのです。
そう思わなかったら至極楽になります。
そのためには、何はなくとも生きているだけで喜びを感じるようになってください。
そうなるにはどうすればよいのかというと、煩悩を無くせばよいのです。
煩悩を無くせば、何事にも感謝の念が湧いてくるものです。
何事にも感謝の念が湧けば、あれが欲しいこれが欲しいと思うことはなくなります。
と言っても、煩悩を無くすのはたやすいことではありません。
でも、それに立ち向かおうとする心構えさえあれば煩悩は徐々に無くなっていくものです。
まずは、無くそうとする意識からです。
この世には、生きて行く上に必要なお金さえ得られない人がいます。
となると、お金を得るために否応なしに苦労しなければいけません。
でも、苦労するからこそ自分の心は成長します。
不要な欲望を無くしてもまだ苦労があると言うときは、
自分の心をもっともっと大きくしなさい(大きくできますよ)と言うことです。
このとき、気をつけなければいけないのは、
お金のないことを悔やんでもどうにもならないということです。
お金に限らず、どんなことでも悔やんで物事が解決することはありません。
こういうときは、冷静沈着に物事を見つめ解決策を見いだしてください。
と言っても、傍目八目という言葉があるように、渦中の者はそれができにくいです。
自分一人で解決できないときは第三者の助言を借りたらよいです。
親、兄弟、友人、知人、公的機関と、相談できるところはたくさんあります。
お金のないことをプラス思考するならば、
今は、お金のないほうがかえって良い結果になるのだと思ってください。
心が出来ないままお金が入ってきても、お金の使い方が分からず浪費してしまったり、トラブルに巻き込まれたりします。
お金のない苦労を乗り越えれば、あなたの心はその分レベルアップします。
お金がないことによって、お金を節約することや何にどう使えばよいのかなど
お金の無駄遣いをなくす術を身につけることができます。
※補足
悔やむというのは、拘りの煩悩です。
拘りという煩悩があると、万全の解決策があってもその通りにできなくなります。
詳しいことは、後述します。
お金の苦労まとめ
・あれが欲しいこれが欲しいと思うから苦労する。
・煩悩なくせば、生きているだけで喜びを感じる。
・欲望なくしても苦労する場合は、まだまだ心が大きくできると言うことである。
・お金のないことを悔やんでもどうにもならない。
・自分一人で解決できないときは第三者の助言を借りたらよい。
・お金がない時は、お金がない方がかえって良いということである。
目に見えない欲望
目に見える物質的な欲望は、不必要かどうかの判断がしやすくまた制しやすいものです。
特にタバコや酒のようにはっきりと害あることは、
来世も人として生きる者にとっては、元々しないか、止めようと思えば止められるものです。
(逆に言えば、そうでない者は人として生きる者でないということになります。)
しかし、ああなりたいこうなりたいというような目に見えない形而上的な欲望には、
不必要な欲望と判断しやすいものとそうでないものがあります。
形而上的で不必要な欲望として分かりやすいのは、身分、地位、権威、権力のように差別化を図る欲望です。
このような欲望は、確執や争いが耐えません。
人間に限らず、宇宙に存在する心はすべて平等です。
能力に優劣の差はあっても、それで差別されることは一切あってはなりません。
身分、地位、権威、権力が欲望からではなく、必然的に生じることがあります。
これはお金と一緒です。
あなたが世のため人のために生きようとしたときに、
それが必要であれば、それ相当の地位、身分、権威、権力を持つことになります。
今ある地位、身分、権威、権力が、己の欲望の産物となっていないか確かめてみて下さい。
目に見えない欲望まとめ
・目に見えない欲望には、不必要な欲望と判断しやすいものとそうでないものがある。
・形而上的で不必要な欲望として分かりやすいのは、身分、地位、権威、権力のように差別化を図る欲望である。
・そのような欲望は、お金と同じく、人のために生きようとするために必要なものだけが与えられる場合と、己の欲望を吐くために与えられる場合がある。
充実感、達成感
心の発生の原点を見れば皆同胞ですが、個々の能力には優劣の差があります。
でも、能力ある者の方が得かというとそうではありません。
どれだけ能力があっても、それを使わなかったら宝の持ち腐れです。
自分の持つ能力をフルに発揮してこそ、充実感、達成感が得られるものです。
自分の能力を精一杯使って生きている姿は、傍目にも心地よいものです。
そこに能力の差は関係ありません。
ここで、気をつけなければいけないのは、
充実感、達成感を得ようとして行動を起こすと、それはもう煩悩となることです。
どんなことでも決して追い求めないこと、追い求めれば追い求めるほど際限のない欲望へと化していきます。
充実感、達成感まとめ
・充実感、達成感は、能力の優劣の差ではなく、持てる能力をフルに発揮してこそ得られるもの。
・充実感、達成感を求めるのは、煩悩である。
競い合う
地球人はいろんな面で競い合うのが大好きです。
何故、こんなにも競い合うのでしょうか?
その理由を述べる前に、予備知識として次の文章を読んで下さい。
Part4[心]幸せより抜粋した文章です。
─幸せとは一体何でしょうか?─
普通、自分の欲望や願望が叶った時を幸せと思う人が多いでしょう。
優勝したりすると大喜びします。
私もスポーツをやって来ましたので、この時の喜びは、はっきりと覚えています。でも、今は何かむなしさを感じます。
このような喜びを幸せとするならば、いつまでも優勝できないことは、いつまでも幸せでないことになります。
また、優勝した時だけが幸せならば、また優勝を追いかけないと駄目です。
─幸せとは誰にでも与えられるもので、永遠に続くものではないでしょうか?─
優勝して幸せと思うことをよく見て下さい。
これには負けた者が優勝した者の犠牲になっていることがわかります。
相手がなければ幸せになれないわけです。
自分の能力・努力だけで幸せを得るわけではないのです。
「他」があるから、幸せになれるわけです。
競い合うというのも欲望の現れですが、問題はこれが必要なものか不必要なものかです。
スポーツを例にあげると、
勝ち負け関係なしに、ただ競い合いプレーを楽しむだけだと
ストレス解消、健康増進になり心身共に良いものです。
ですが、勝ち負けを争うとなると不健全なものへと化してしまいます。
そのとき、冷静に自分を見れば、
勝ちたい、勝たなければならないという苦悩に苛まれている自分に気が付くと思います。
さらに、応援する者までが同じ苦悩に苛まれている始末です。
でも、筋書きとしてはこれでよいのです。
苦悩に苛まれる、つまり煩悩を放出して無くしているわけです。
そういう煩悩が無くなった者は、
勝敗を追うことに、むなしさを感じ取ることができるようになります。
話しが飛躍しますが、
宇宙人のように科学が発達し、遺伝子でさえも合成できるようになると、
肉体の機能を思うように作り替えることができます。
100メートルを5秒で走りたいなら、そういう肉体にすることも可能です。
また、相手の心を読むことができますので、対戦相手のあるスポーツは意味がなくなります。
まして、超能力を使ったらまったく意味がなくなります。
と言うことで、宇宙人(本当の人間)は、競い合うようなスポーツはしないです。
スポーツと言っても、軽く体を動かす程度の運動しかしません。
超能力を使えますので、頑丈な肉体は不要です。
でも、美しいものを好むのは地球人も宇宙人も一緒ですので、
均整の取れた美しく無駄のない肉体とします。
競い合うまとめ
・幸せとは誰にでも与えられるもので、永遠に続くものである。
・つまりのこと、競い合って得られる喜びは幸せでもなんでもない、煩悩そのものである。
負の欲望
この世では、競い合わせることによって、
能力を引き出そうとしたり、よりよい物を生み出そうとします。
しかし、本来、人間として正しい心持ちであるならば、
競い合わなくても、世のため人のために自分の持つ能力を
精一杯発揮しようとするのは、極当然のこととなります。
なのに、競い合わないと自分の力を発揮しないというのは、
怠慢という煩悩に過ぎません。
現代文明の前の文明に、エロヒムの創った地球人は、
この怠慢がひどく、それで地球人を抹消しようとしたわけです。
怠慢も一つの欲望であることが分かりますか?
これは、したくないという負の欲望なのです。
しかし、負の欲望を立ちきれない者は、それを放出するしかありません。
負の欲望が甚だしい者は、何もしようとしないだらしない生活を
送るような筋書きとなっています。
そのような者を見ると嘆かわしく思えますが、そう思えばそれもまた煩悩となります。
律することが出来るにこしたことはないですが、
そうでないならば、温かい目で見守ってあげて下さい。
怠慢でなくても、自己の利益に反すること、都合の悪いこと、自分が好まないことは、
往々にして、したくないという負の欲望が働くものです。
そのような負の欲望が強く働く者は、正の欲望が強い者と同じく、
人々に迷惑をかけながら我が儘に生きる筋書きとなっています。
負の欲望まとめ
・怠慢というのは、したくないという負の欲望である。
・それを嘆かわしく思うのもまた煩悩である。
・自己の利益に反すること、都合の悪いこと、自分が好まないことなどは、したくないという負の煩悩が働く。
優劣の差
地球人は記憶することに対して大変な労力を使います。
でも、宇宙人は「真実を告げる書」にもある通り、
記憶の水というのもあるぐらいですので、
記憶することに労力を必要としません。
(水は、ありとあらゆる波動を吸収することができます。
その性質を利用して記憶媒体としても使えます。)
本当の人間となれば、頭の中で思考することは、
すべて現実化することが出来るだけの能力を持っています。
但し、思考できる範囲は人(心)によってかなりの差があります。
親神のように、宇宙すべてを思考することができる者から、
草花ひとつで精一杯の者もいます。
ここで言う思考は、その物体の外観を思考するだけでなく、
生物であればその遺伝子の構造をも思考できるという意味です。
そうでないと現実化できないです。
外観を思考するだけだと、絵を描いたり彫刻したりで終わります。
地球人は宇宙人から比べると、能力は遙かに低いし個々の優劣の差が激しいです。
これは、競争することによって様々な煩悩を吐き出すめためにはもってこいです。
皆が変わらぬ能力を持っていたら競争する気は起こらなくなります。
逆に言えば、煩悩を吐くためにわざと低い能力を持たされ、
さらに優劣の差を激しくしてあるわけです。
人が見聞きし理解したことは、すべて心のメモリーに記憶されています。
問題は、記憶したものを引き出すことが出来るかどうかです。
脳の機能をいじれば、それを良くすることも悪くすることも出来ます。
記憶力が良いものは、その機能が良いということです。
逆に悪いものは、その機能が悪いということです。
脳の病気である場合もあります。
どちらも筋書きとしてそうしてあるだけであって、
本当の記憶力は皆もっと優れています。
たとえ、記憶力が悪くても上からデーターを送ってもらえば、
どんなことでも思い出すことができます。
何年何月何日に何をしていたかということを正確に言い当てる人がいますが、
それはそういう理屈です。
私の場合だと、この文章を書くのもそうだし、
人と喋っていても上からデーターが送ってこないことには何も喋れません。
だから、人と話していてデーターが途切れると、
次に言うことが分からなくなり話しが中断してしまうことがあります。
でも、本当はそれの方が矛盾しません。
今は筋書きで何もかも決まっています。
だから、今の自分が思考して言動を決めると言うことの方がおかしいです。
私はそれが分かっていますので、すべて上からの指示通りに動いています。
余談ですが、
この文章を書いている時(平成23年7月)の体調は、余り良くないです。
肉体的苦痛もありますが頭の働きも記憶力も良くないです。
この文章を書くにも、上から送ってくるデーター(テレパシー)が頼りです。
そのデーターを日本語に訳しながら休み休み少しずつ書いています。
テレパシーは、コンピューターでいうマシン語のようなものです。
言葉ではありません。
今の私は頭の回転が良くないので、テレパシーを訳すのに時間が掛かります。
訳す言葉が思い出せないときは、マシン語ではなく
言葉でテレパシーが送ってくるときもあります。
他、色々な映像や音楽も送ってきます。
今の私は、外部から入ってくる煩悩を処理する毎日です。
煩悩を心の糧として生きていると言っても良いです。
煩悩を吐いてしまうと自分の物になりません。
煩悩を自分のものにするには、頭の中だけで浄化してしまうことです。
煩悩が一時的に入ってこないときは、すごく楽になります。
このことについて、以前にブログに記していますがもう一度記しておきます。
----------------------------------------------------------------------
2010/8/18
今日は、頭の中で妙なことが起こりました。
数秒間ほど、煩悩がまったく入ってこなくなりました。
これだけなら、たまにあるのですが、
さらに、顕在意識にある心がどの程度のものか確認できました。
と書いても、何のことかさっぱり分からないかも知れません。
このことを理解してもらうには、予備知識が必要です。
私たち地球人は、心を浄化するために筋書きの傀儡として生きています。
そのために、潜在意識と顕在意識というふたつの意識を持たせられています。
潜在意識にある心は、その人の本当の心です。
顕在意識にある心は、筋書き上の仮の心です。
私の場合、覚醒してからは、どちらの心にも煩悩はありません。
だけど、顕在意識には常時、外から煩悩が入ってきます。
これには人からもらうもの、上から送ってくるもの、
死霊を成仏さすときに背後霊が処理できなかった分など色々です。
この煩悩が、僅かな時間ですが入ってこないときがあります。
煩悩がない心というものがどういうものかは、体験した者でないと分かりませんが、
実に爽快です。
生きているだけで喜びに満ちあふれ怖いものは何もないと言った状態です。
今日は、この煩悩が入ってこない状態に加えて、
自分の顕在意識がどの程度成長しているか確認することが出来ました。
残念ながら、確認した内容はすぐに記憶から消されてしまいましたので、
この日記に書くことは出来ません。
ただ、その実力は頼もしい限りという記憶だけは残っています。
でも、まだこれでは足らないのでしょう。
その後すぐに、いつもの自分となりました。
いつまで続くかはわかりませんが、毎日煩悩との闘いです。
皆様方も嫌なこと辛いことたくさんありますがめげずに頑張って下さい。
そのためには、まずは何が煩悩なのか知ることです。
そして、その煩悩を放出するのではなく、
出来るだけ心の中だけで処理してください。
処理できない分は、放出するしかありませんが、
人に打ち明けても解消するものもあります。
行動を起こす前に、相談できる人がいれば相談してください。
優劣の差まとめ
・地球人は、宇宙人から比べると遥かに低い能力しか持たされていない。また優劣の差を激しくしてある。
・そうすることによって、競争心を仰ぎ、様々な煩悩を吐き出せている。
能力
能力の優劣は、劣等感や優越感という煩悩を吐き出すこともできます。
落ち込んだり天狗になったりしている人は、よく見かけるものです。
己の能力を高めようとする意識は大切ですが、
その能力を悲観しても誇示しても煩悩です。
落ち込みは苦悩を伴いますので、煩悩とハッキリ分かります。
でも、天狗になってしまうと自らの苦悩は消え失せます。
しかし、それによって誰かが嫌な目をしています。
自分に苦悩がなくても人に苦悩を与えたらそれも煩悩です。
天狗にまでならなくても、少しでも自分の能力を誇示することはすべて煩悩です。
但し、自分にはこういう能力がありますよと提示する必要がある時は
遠慮なく提示して下さい。
自分が天狗になっているだけならまだましですが、
中には、能力ない者を馬鹿にする者もいます。
これは、その者に暴力的なダメージを与えます。
『精一杯やってできない者に、「できない」と言うほど残酷なことはない。』
Part4[心]語録より
今ある自分の能力というのは筋書きとしてあてがわれたもの、
そしてそれはその人やその人に関係する人たちの煩悩を吐き出すために
適した能力であるということです。
(容姿の優劣も同じことです。)
どんなに素晴らしい技量を発揮しようとも、どんなに大発明大発見しようとも、
それは筋書きとして仕組まれたもの、
地球人のするようなことは、別にその人でなくても誰にでもできることなのです。
※参考
たとえ、その人にそれだけの能力がなかったとしても、
守護霊が操れば神業的なことも可能です。
背後霊が一時的に憑いて、神業的な能力を発揮する人もいます。
普段の能力からは、かけ離れた特定の技を見せる人や
得意なことをしているときだけ別人のようになる人は、そういう可能性があります。
背後霊ではなく、浮遊する霊が取り憑いて特殊な能力を発揮する人もいます。
こういう霊は、この世に未練があって成仏できなかった霊です。
自分の能力を使いたいがために、人に取り憑くわけです。
人の霊ではなく動物霊が取り憑いても特殊な能力を発揮する人もいます。
特殊な例として、潜在意識にある心が顕在意識化して
優れた能力を発揮することもあります。
能力まとめ
・己の能力を高めようとする意識は大切だが、その能力を悲観しても誇示しても煩悩である。
・能力を提示することは煩悩ではない。提示する必要があるときはしなくてはならない。
・容姿も含み、その人の能力は、その人の煩悩を吐き出させるために適したものにしてある。
・またその能力は、その人の本当の能力ではない。筋書きとしてあてがわれたものである。
容姿
容姿の良し悪しも煩悩を吐くために必要なことです。
特に女性の場合は、それが顕著となります。
容姿のことで色々と憂いている人は多いと思います。
憂うことは、すべて煩悩です。
また、自分の容姿だけなら良いですが、人の容姿までとやかく言っていませんか?
これもまた煩悩です。
ところで、女性は綺麗になりたいという欲望が強いです。
輪郭は治せないとしても、肌だけでも美しくありたいと色々と手を尽くすものです。
元々、神は、女性は美しいものであることを前提にして創っています。
そして、女性はその美しさを保つために綺麗にしておくというプログラムを
心に埋め込まれています。
(歳と共にそれが消え失せる人がいますが)
それがあるために、女性は美しくなるために色々と手を尽くすのです。
ですが、そこに煩悩(不必要な欲望)が加わるために、
異常なまでの処置を施してしまうことになります。
肌にトラブルがあると別ですが、
本来は自然のままの肌の方が美しいと思うのが正当です。
なのに、元の状態が分からないぐらいに覆い隠してしまうことさえあります。
これは、煩悩のなせる技です。
役者のように、その役になるためならば理屈に合いますが、
自分の姿を覆い隠し偽ることは、美しくあらねばならないという必要な欲望が、
煩悩化してしまったのです。
但し、人の欠点を誹謗中傷する者がいるこの世では、
化粧に限らず、自分の欠点を覆い隠す必要がある場合もあります。
『化粧とは化けることである。自分を偽わることである。隠すことである。』
(人に不快感を与えたくないという心持ちがある場合はこの限りではないです。
その場合、自然な感じの化粧になると思います。)
Part4[心]語録より
化粧を飛び越えて、整形する者もいます。
この場合、心も変わるならば悪いことではありません。
このことについて、以前質問を受けたことがありますので紹介しておきます。
----------------------------------------------------------------------
質問
> 失礼致します。
> 昨日、ビューティーコロシアムという番組をやっていて、
> (顔が醜い方が綺麗になりたいと望み、整形して様変わりする番組です)
> それでふと一つ疑問に思ったことがあったのですが、
> 生まれつき顔が醜悪【ブス】で、周りの人に不快感【苦】を与えている方がいます。
> 但し、本人にはそのような悪意【意図】は全くなく、
> 知らず知らずの内に人に苦を与えている、
> つまり無意識の内に周りに不快感を与えている場合【ケース】も、
> 心は縮小することになるのでしょうか?
> この場合、動機は尊重されないのでしょうか?
> もしかすると、そのままほっておいて、対策しないといけない理由があるからこそ、
> そのような醜悪な姿として生まれているのかもしれません。
> とはいっても、当人も周りからいろいろときついことを言われたり、
> はたまた深刻なイジメも受けておりますので、
> それで相殺されているという可能性もあるかと思われます。
> なので、心の大小はプラマイゼロで変わっていないとなるのでしょうか?
> しかし、それだとやっぱり醜悪な姿で生まれた方が結局のところ、
> 一方的に損していることになり、少し理不尽に感じました。
> 少し嫌味な言い方になりましたが、そのような方を責めてる訳ではありません。
> 人のためを思う気持ちがあるのであれば、整形もひとつの手段だと観ております。
> この点に関しまして、管理者様の声をお聞かせ頂けますと、非常に助かります。
私の回答
結論から言いますと、その人の心が縮小することはありません。
むしろ、それを差別する人がいるならば、その人の心が縮小します。
人の顔だけに留まらず、自然界の生命体を見ていると、
美しいもの、醜いもの、気持ち悪いもの様々です。
それを見て苦と思うのは、その人の心次第です。
私なら、醜いものを見たならば、「来世は綺麗なものに生まれ変わって下さい」
と願います。
顔は醜くても、心の綺麗な方もおられます。
逆に美人であっても、心は不美人の方もおられます。
そう言う人からは、顔は綺麗でも見るだけで嫌な波動を感じます。
(波動を感じる能力が強くなると、誰しも分かることです。)
一番良いのは、顔と心が比例することです。
だけど、この世は修行の場、
なにがしかのハンデをもっているほうがずっとよい修行になります。
そのハンデが必要でなくなったとき、美しくなる方法があれば美しくなればよいです。
Part4[心]語録に次の言葉があります。
『整形して心も変わるならば理屈に合う。』
と言うことになります。
もし、あなたが人に不快感を与えたくないと思い、
尚かつ整形できるチャンスがあるならば、出来る限り整形したらよいです。
ただし、不快感を与えたくないという心持ちがどのようなものかよく理解して下さい。
余談ですが、
顔を見ていると、普段のその人の心持ちが分かるときもあります。
優しい心は柔和な顔を作ります。棘ある心は険しい顔を作ります。
その他様々な心持ちが色々な顔を作り出します。
逆に言えば、心変えれば見よい顔ともなります。
※参考
肌は、過度の手入れをするより、ある程度ほっておいた方が美しく維持されます。
容姿まとめ
・容姿の良し悪しも煩悩を吐くために必要なこと。
・必要であれば、適度適切な化粧をしてもよい。
・整形も同じこと。
・整形して心も変わるならば理屈に合う。
試験
優劣の差を判定するために、地球人には試験というものが課せられます。
勉強できない者にとっては、いや勉強できても試験はいやなものです。
試験で苦悩された方は多いと思います。
と言うことは、試験は煩悩を吐くためにもってこいということです。
また、その結果次第では、試験が終わってもさらに煩悩を吐くことになります。
どんなことに対してでも言えることですが、
今は筋書き、結果がどうであれ、
それが良いからそうなっていることを忘れてはなりません。
非情極まることが起きても、決してマイナスに考えないことです。
マイナス思考によって生ずる負の念波動は、
肉体の波動を乱し病気の原因ともなります。
何事もプラス思考することです。
結果がどうであれと言いましたが、
筋書きが終わるまでは最終結果はまだ出ていません。
この世の筋書きは「禍を転じて福となす」が前提です。
目の前で目を覆うようなことが起きても、それが良いからそうなっているのです。
『ハッピーエンドで終わればおぞましい世の中も仕方ない。
よってこの世の筋書きがある。』
Part4[心]語録より
良い結果を出す者は、努力したからこうなったという者もいますが、
努力できるできないというのもその人にあてがわれた能力です。
たとえ、努力できたとしても、できない者はできないです。
努力できるということを誇示するのも煩悩です。
但し、努力しようとする心構えは大切です。
本当の人間は、試験もなければ努力することもありません。
本当の人間は、神と同じく全知全能であるためその必要がないのです。
努力し苦労するからこそ人生だと思う方もおられるかも知れません。
でも、本当の人間とは何かが分かれば、そう思わなくなります。
詳しくは、Part4[心]をお読み下さい。
※参考
病気の原因は、その人の心から発せられる負の念波動の他に、
外部からもらう、あるいは入ってくる波動もあります。
人のことを思えば思うほど、つまり人の気を汲めば汲むほど、
この波動を多くもらうことになります。
が、それに打ち勝てば、その分、自分の心を大きくすることができます。
入ってくる波動には心そのもの、つまり悪霊である場合もあります。
これには、その人の心の悪さにつけ込むものと、
その逆にその人の心の良さにつけ込むものとがあります。
前者に関しては、打ち勝つどころか共倒れとなることがあります。
つけ込まれるということは、
前者であっても後者であっても心に弱さがあるということです。
プラス思考すれば、
その心の弱さを無くすためにつけ込まれてもらったと考えれば良いです。
つけ込んで頂いてありがとうです。
と言っても、結果が出るまではそうは思えませんが。
試験まとめ
・試験もまた、煩悩を吐くためのもの。
・その結果がどうであれ、プラス思考すれば、必ず良い方向へと向かう。
・努力もまたあてがわれてた能力、その心構えは大切であるが、それを誇示するのは煩悩である。
崇める
地球人は、能力ある者を褒め称えます。
また、そのような人にあこがれを持つこともあります。
カリスマ的な能力を発揮する者には崇めてしまうことさえあります。
それが宗教と化すれば、それにすがりいきがいとなってしまうこともあります。
これは、煩悩ではないですが、
神は、人間として生きる者には「神と同等の心を持ちなさい」と言ってます。
その人の作品や技量あるいは話しに感銘を受けるのは良いですが、
その人自身をあこがれ崇めていたら、いつまで経っても人間にはなれません。
神そのものを崇めるのも同じことです。
つまり、神仏を崇め奉る宗教は、本当の人間にとっては不要と言うことです。
さらに、人間になろうとする者に対しては、
それが障害となり苦悩となってしまいます。
煩悩ではないと言いましたが、これが苦悩を伴うことになればやはり煩悩です。
『できる人を褒め讃えるほど愚かなことはない。』
Part4[心]語録より
※参考
地球人は、褒められると嬉しく思います。
それは、能力が不完全だからです。
本当の人間は、全知全能です。
全知全能の者は、いくら褒められても出来て当たり前ですので
嬉しくも何ともありません。
でも、不完全な者を育てるには、褒めることは大切です。
だから、今は人を褒め育ててあげなければいけません。
そして、いけないときは必ず戒めてあげること、褒めてばかりでも人は育ちません。
戒めると言いましたが、このとき決して自分の鬱憤を晴らそうとしてはなりません。
常に相手の立場に立ち、少しでも心が良くなるように戒めるという言う意味です。
当然、褒める時も同じです。
その人の心が育つように褒めてあげてください。
過度に褒めると、我がままを増長させるだけです。
崇めるまとめ
・崇めることは煩悩ではないが、これが苦悩となればまた煩悩である。
・神を崇めていたのでは、いつまで経っても神の心意気とはなれない。
・つまり本当の人間とはなれない。
商業経済
この世の経済は、お金がものを言う商業経済です。
経済にお金は不可欠なものだと思っておられるかも知れませんが、
そうではありません。
お金がなくても経済は成り立ちます。
(このことについては、Part4[心]お金と経済のところで述べています。)
お金のある経済には、熾烈な競争原理が働きます。
相手をのことなどどうでも良い、自分さえ良ければ良いという自己中心的な行いが、
企業という組織ぐるみでまかり通ります。
助け合って生きるという本来の人間の姿からは、全く逆行するものです。
お金は煩悩の化身です。
従って、商業経済の中に成り立つ企業も煩悩の化身となります。
巨大企業という言葉がありますが、巨大煩悩と言うこともできます。
その企業に働く者が、どれだけ純粋に仕事をしても、
企業としてみれば否応なしにそうなってしまうのがこの世の商業経済なのです。
煩悩の化身は、最終的には人を駆逐し自然をも駆逐します。
今、それが始まろうとしています。
「お客様のために」とか「自然を大切に」とか綺麗事を言う企業もありますが、
それは顧客から利益を得ようとするための詭弁に過ぎません。
だからと言って、この世の商業経済をなくすことはできません。
行き着くところまで行くしかありません。
全体を変えようとしても変えられるものではありません。
自分を変えるだけでよいのです。
※補足
仕事だからと言って、合法的だからと言って、人に苦しみを与えていると、
自分の心はどんどん縮小していきます。
これでは、来世は人間になるどころか、宇宙の塵と化してしまいます。
そのような立場で仕事をされている方は、くれぐれもご注意ください。
ただ、それを覚悟してこの世に生まれてきている方は、その限りではないです。
そのまま、自分の人生を全うしてください。
大変な役目、ご苦労様です。
商業経済まとめ
・お金がなくても経済は成り立つ。
・お金には、熾烈な競争原理が働く。
・助け合って生きるという本来の人間の姿からは、全く逆行するものである。
・お金は煩悩の化身である。
・「お客様のために」とか「自然を大切に」とか綺麗事を言う企業もあるが、
それは顧客から利益を得ようとするための詭弁に過ぎない。
・だからと言って、この世の商業経済をなくすことはできない。行き着くところまで行くしかない。全体を変えようとしても変えられるものではない。自分を変えるだけでよい。
納期
仕事をしていると、納期というノルマが課せられるときがあります。
私は、以前に、整体の他に産業機械の設計製作の仕事をしていたことがあります。
その時、この納期には大変苦しみました。
これで相当に体調を悪くしました。
未だに尾を引いています。
でも、納期を守るために必死になって仕事をし苦しみを頂いたことは、
自分の心を鍛えるには非常に良いものでした。
商業経済によって決定される納期は、
本来の仕事の目的から決定される納期とは異なるものです。
本来、仕事というのは私たちの生活が豊かになるためにするものです。
でも、商業経済は、利潤を追求するということが先に立ってしまうため、
無理な納期の設定など本来の仕事の意義からは逸脱したことを
平気でしてしまうものです。
中には、非合法的なことでも仕事だからと言って
当然のごとくやりのけてしまう人もいます。
相手にどれだけ迷惑をかけようが、嫌な目に合わせようがおかまいなしです。
私もこれでどれだけ嫌な目をしたかわかりません。
でも、これで音を上げてはなりません。
これこそ、人から心を頂く願ってもないチャンスです。
自分の心が悪いがためにする苦労は、
自分の心を修正するだけで大きくすることはできません。
しかし、人から頂く苦労は、自分の心に付加されます。
(その分、相手の心は縮小します。)
ここで注意しなければならないのは、
腹を立てたり憎んだり恨んだり文句を言ったりしないことです。
それをするとせっかく頂いた心を自分の心に付加することができなくなります。
商業経済の中で決定される納期は、本来の納期から逸脱したものです。
それでも、商業経済の仕組み上、守らないわけにはいきません。
辛いですが、これは、ひとつの修行として考えれば良いです。
では、商業経済によるものではなく、
本来の仕事の目的から決定される納期ならどうでしょうか?
と言うより、納期というのは必要なものでしょうか?
答えを先に言うと、ほとんど必要ありません。
いついつまでにしなければならないと決めてしまうと、
すごいプレッシャーになります。
時間は永遠にあるもの、そして本当の人間は永遠に生きる者、
のんびり生きれば良いのです。
神がこの宇宙を創った理由はただひとつ、「苦なく楽しく生きる」なのです。
納期を決めなければいけない仕事があっても、
十分に余裕をもって決めたらよいのです。
だけど、現代文明の前の文明の地球人のように怠慢だと、
厳しく納期を決めてやらないと仕事をしなくなります。
と言うことで、この世の筋書きは、あえてお金というものを作り出し、
お金がないと生きていけない世の中とし、
嫌でも働かなければならないようにし、
さらに競争原理の働く商業経済を作り出し、
納期などのノルマを与え、苦しみ多き世の中としてあるわけです。
そして、その苦しみがあなたの心を成長さすのです。
※注意1
「苦なく楽しく生きる」ですが、その楽しみ方を間違えると自己破滅となります。
※注意2
「音を上げてはなりません」と言いましたが「過ぎたるは及ばざるが如し」です。
度を越しては、元も子もありません。
これ以上仕事を続けたら身がもたないと思ったら、仕事をストップして下さい。
何を言われようが、身体を駄目にしてまでやることはありません。
ただ、自らそうすることが出来ない状態の時は、
やれるところまでやるしかありません。
あなたが人のため他のために生きる方であるならば、
もう限界と思ったときに救われるようになっています。
しかし、そういう場合のもう限界というのは、極限だと思ってください。
それでも、蘇ることができるならば、遅くはありません。
※参考
この世の修行が終わったあとでも、「これはもう間に合わない、絶体絶命だ」ということが起こらないとは限りません。
その場合は、時間を止めたり巻き戻したりするということもできます。
詳しくは、Part5[時間と空間]で。
納期まとめ
・商業経済の中で決定される納期は、本来の仕事の目的から決定される納期とは異なるもの。
・しかし、そうすることにより苦しみ多き世の中としている。
・そしてその苦しみがあなたの心を成長させる。
競い合うまとめ
今までの説明で、
「何故、こんなにも競い合うのでしょうか?」という質問の答えは解けたと思います。
まとめると、
怠慢という煩悩を打ち消すために、
筋書きとして競い合うようにしているということになります。
そのためには、本当の人間から比べたら遙かに低い能力とし、
尚かつ著しい優劣の差をつけているわけです。
また、それは他の様々な煩悩をも吐き出すこともできるということです。
煩悩により煩悩を打ち消し、また、煩悩が煩悩を誘い出すという筋書きです。
煩悩あっては、幸せになれません。
そのために、この世の筋書きは、
私たちの持っている煩悩をすべて吐き出させるようにできているのです。
そして、その煩悩を心の中で処理できる者は心を大きくし、
放出ばかりしている者は、心をどんどん縮小するのです。
と言っても、どちらが良い悪いというわけではありません。
煩悩を無くすこと、それが第一なのです。
競争心もひとつの欲望です。
適度な競争心は、良きモチベーションとなり生産性をあげますが、
(必要な欲望)
過度な競争心は、悪きモチベーションとなり様々なトラブルを生みます。
(不必要な欲望)
商業経済は、お金と競争心という巨大煩悩の上に成り立つものです。
巨大煩悩が故に、商業経済は、この地球に最悪の結果を持たらします。
でも、心を大きくする者、つまり、煩悩を心の中で処理できる者にとっては、
この最悪の結果こそが最大の好機となるのです。
お金のある世の中、そして、それを追求する商業経済、
これが当たり前だと思わないでください。
煩悩の化身であることを忘れないでください。
しかし、それを変えることはできません。
行き着くところまで行くしかありません。
変えるのは自分の心だけ、それで十分です。
※参考
競争心が闘争心に転じることがあります。
と言うよりは、闘争心を小出しにしたものが競争心です。
闘争心というのは、自分の身を守るための動物的本能です。
闘争心が強い人は、前世が闘争心の強い動物などであったと考えられます。
動物の闘争心は必要が無くなれば治まります。
地球人の闘争心は、ことが治まってもいつまでも消えないことがあります。
これは、感情という煩悩があるからです。
本能とは、心というコンピューターに仕組まれた基本のプログラムです。
自然界の動物を見ていると、
誰も教えていないのに自分の餌となる物を知っていたり、
巣など素晴らしい造形物を作ったり、
不可思議なほどに合理的な行動を取ったりします。
それは、そのような物を作るようにあるいは行動するように
プログラムされているからできるのです。
(心というコンピューターについては、Part4[心]で解説しています。)
子供が欲しい
本当の人間は不老不死です。
と言うより死という概念がありません。
肉体を持つも持たないも自由自在です。
本当の人間は、死というものがないので子供を産むということはしません。
子供を産むというのは、あくまでも子孫を残すためです。
死なない者は子孫を残す必要がありません。
ところで、子供は可愛いですね。
特に自分の子供は可愛く思うものです。
何故でしょうか?
これは、食べなければいけないからおいしいのと同じ理屈です。
可愛いと思わなかったら産む気がおこらないでしょう。
大事に育てようともしないでしょう。
これでは、子孫が途絶えてしまいます。
だから、自分の子供は可愛いと思うように
心というコンピューターにプログラムされているのです。
しかし、ここに煩悩が働くと本末転倒となります。
子供を産むのに、子孫のためと思って産む人は一人も居ないと思います。
ただひたすら、自分の子供が欲しいと思うばかりです。
子供が欲しいと思う心に、地球の自然を思う心はありません。
このまま人口が増え続けたらどうなるかは歴然としています。
地球人が子供を産むのは、煩悩の所業なのです。
自分の子供は可愛いとプログラムされているわけですが、
ここに自己中心の愛情(渇愛)が加わると
極度に自分の子供だけを大切にしようとします。
人間として生きる者は、
誰の子であっても自分の子供のように大切に育てられるものです。
自己中心の愛は、本当の愛ではありません。
すべてを愛することが出来る者、それが人間です。
但し、自分の子には、自分が産んだ責任を死ぬまで全うしなければいけません。
この限りでは、我が子を大切に育ててください。
但し「可愛い子には旅をさせろ」も、我が子を大切にするうちです。
その逆に、可愛いとプログラムされているにも関わらず、
育児を放棄したり虐待する者もいます。
これは、犯罪を起こす者と同じ理屈で、脳の病気で理性が働かなくなっているのです。
脳の病気で犯罪を起こすと言っても、その原動力となるものはやはり煩悩です。
理性が正常に働く者は、煩悩が強く働いても
それ以上に理性を働かせれば犯罪を起こすことはないです。
理性を正常に働かせるには、常に己を律するように心がけることです。
自分を良くしよう良くしようと、言い聞かせていることです。
それができないものは、煩悩を放出するしかありません。
だから、筋書きとして理性が働かなくしているということも出来ます。
※参考1
エロヒム程度の科学力ですと、「真実を告げる書」にあるとおり
肉体を作るのに母体を必要としません。
つまり、親はなくても子供、いや大人でも作れるということです。
※参考2
Part4[心]語録にあるとおり、心の本質は善です。
犯罪を犯す者は、自分のあるいは人の心を浄化するがために
否応なく犯罪を起こすという筋書きを自ら書いているのです。
本当に悪いのは、犯罪者よりも被害者ということも無きにしもあらずです。
これを理解するには、「罪を憎んで人を憎まず」の本当の意味を
理解する必要があります。
神と同等の心を持っていただければ理解できるかと思います。
自然は、増えすぎたものは抹消するようにプログラムされています。
食料とかそういう問題ではなく、波動の科学上、
ある自然の範囲の中で動植物が生育できる密度というのは決まっています。
鳥インフルエンザでたくさんの鶏が死んでいますが、
それはそのことが関係しています。
これは、人類も同じことです。
そのうち適切な人口に減らされる時が来ます。
子供が欲しいまとめ
・本当の人間は不老不死であり、子供を産むということはしない。
まして科学力が発達すれば、母体を必要とせず子供、いや大人でも作れる。
・自分の子供を特に可愛く思うのは、そのような煩悩を持たされているから。
・その逆に育児放棄したり虐待する者もいる。
これは犯罪者と同じで脳の病気で理性が働かなくなっている。
言わば、これも負の煩悩であるが。
・増えたものは減らされる。それが自然の摂理である。
セックス
セックスは、気持ち良いです。
気持良いというだけでセックスする者もいます。
でも、これでは“欲望(5)「食べること」”で述べたように、おいしいから食べるのと同じことになり本末転倒してしまいます。
生物学的には、子孫を残すという意味合いがありますが、子どもが欲しいと思ってセックスする者はいても、子孫を残そうと思ってセックスする者はいません。
実は、セックスする本当の理由は別にあります。
セックスは、心が消滅しないためになくてはならないものなのです。
このことについて説明しますが、相当の予備知識が必要です。
Part4[心]を読まれた方でも理解しづらいかも知れません。
性器を交えるセックスは、愛する者同士しかできませんが(してはなりませんが)、愛する者同士でなくてもできるセックスがあります。
そもそも、セックスと言うのは性波動のリサイクルのことを言います。
性波動とはいわゆる性欲のことです。(ここで言う性欲はセックスしたいという意味ではなく、性欲が溜まるという意味です。)
Part4[心]語録に次の文章があります。
『女は男に性欲を取ってもらい、それを男が変換し、女に返すことにより、波動の排泄物をリサイクルしている。従って女は男を引きつけるように求め、男は女に引きつけられるように求める。』
要するに、性波動がリサイクルできればセックスと言うことになります。
例えば、手と手を繋いだだけで性波動のやりとりができれば、それでもセックスとなります。
排尿排便が物質レベルの排泄であるならば、セックスは波動のレベルでの排泄となります。
私たちは、食べ物を摂取し体を維持していますが、無意識で波動も摂取し体と心の維持をしています。
極端な話し、インドに住むおじいちゃんプララド・ジャニさんのように食べ物を摂らなくても波動を摂っているだけで生きることはできます。
しかし、波動も摂取すれば当然ながら排泄しなくてはいけないものも出てきます。
それが性波動です。
性波動の蓄積は、いわゆる性欲を生じさせます。
プララド・ジャニさんの場合は、すべて上(守護霊:頭上に位置するUFOに乗った宇宙人)がコントロールしていますので本人は波動の摂取も排泄も何ら意識するが必要がありません。
物質的な排泄物は、自然界に戻され微生物や動植物などの餌となりリサイクルされます。
排泄物と言っても無駄なものは一つもありません。
波動の排泄物も自然界に戻される分もありますが、性波動として体に蓄積されるものもあります。
この体に蓄積された性波動をリサイクルするのがセックスです。
性波動は排泄物ですので、蓄積されると身体に悪影響を及ぼします。
肉体的レベルから見ても適度なセックスは健康を維持するには大切なものです。
親神は自分の分心を女としましたが、性波動が蓄積されるのを女だけとしました。
逆に言えば、自分に性波動が蓄積しないようにするため、女という分心を作ったと言うことです。
こうすることによって自分の心が消滅しないようにしたのです。
親神の心さえ消滅しなければ、分心は再生できますので何の心配も要りません。
心とは何かが分からないことには、この理屈は理解できないかも知れません。
今は、心は永遠に存続できるようにしてあると思って頂ければそれでよいです。
地球人の肉体には(顕在意識の中に)複数の心が入っています。
さらに複雑なことに、普通、男の体であるならば男の心が女の体であれば女の心が入るわけですが、男の体であっても女の心が入っていたり、女の体であっても男の心が入っていたりすることがあります。
性同一性障害と言う病気は、そのために起こります。
また、同性愛という理解しがたいことも生じます。
同性愛を禁じている宗教もありますが、そういう宗教は見かけだけにとらわれ、物事の本質を見抜けないでいるわけです。
また、一つの肉体に男と女の両方の心が入っている場合もあります。
このように、地球人は、その外見だけで男か女かを区別することは難しいです。
また、地球人の女は、性波動を分別なく撒き散らす者がいます。
男もそれにつられ分別なく女を求めることになります。
分別ある男でも人の波動を受けやすい者や女から好意をもたれやすい者は、性波動の蓄積が過多となります。
「英雄色を好む」と言われるのはそういう所以です。
地球上では考えられないことですが、煩悩が全く無く純粋に男であり一人暮らししている者には、性波動は蓄積されません。
地球人のセックスは、愛し合う者同士であっても煩悩をいだきながらのセックスとなることが多いです。
正しいセックスとは言い難いです。
ウェルテック・ジュジュのホームページ波動合わせPart1[ハンドスキャン]のところで、『セックスは唯一の快楽です。
愛の表現として、お互いのためになるセックスはおおいに楽しんで下さい。
健全な愛の表現ならば良いのです。
恋しあうもの同士素晴らしい官能の世界を作って下さい。』とありますが、ここに言う愛とは何なのかをしかと理解してください。
正しいセックスをするには、まず人間愛があることです。
(ここで言う人間愛とは、神と同等の心となったときに悟れる人間愛を言います。)
夫婦間であっても人間愛のないセックスは正しいセックスとは言えません。
恋愛感だけのセックスでは、ただお互いの欲望を満たすだけのセックスつまり快楽を追うセックスとなります。
快楽を追うセックスは、性波動のリサイクルが正常に行われない可能性があります。
そうすると、心のエネルギーを無駄に消耗することになり心は縮小してしまいます。
淫らなセックスを慎まなくてはならない理由はここにあります。
恋愛感がなくても相手の性波動を取ってあげる必要がある場合は、人間愛だけでもセックスをすることができます。
それが性器を交えないセックスとなるわけです。
恋愛感がないと勃起することがないので性器を交えるセックスはできません。
その点、煩悩のセックスは、恋愛感がなくても勃起しますので誰とでもセックスできます。
私は男ですのでこのことはよく解ります。
つまり、私の場合は相手の性波動をもらうと一時的に勃起することはありますが、恋愛感がないと相手に求められ応じようとしても、いざ性交となると勃起しなくなります。
女の方は受け身なので誰とでもセックスできてしまいます。
無理矢理されてしまうこともあります。
悲劇が生じることがありますが、因果応報ですのでこれでよいことになります。
因果応報の理屈は難解です。
いずれその時が来れば解説したいと思います。
夫婦だとセックスする気分がないと言って、女の方が拒否することがあります。
でも、これは自ら浮気して下さいと言っているようなものです。
自分にセックスする気がなくても、相手に性波動が蓄積されていれば、手なり口なりで取ってあげなければいけません。
人間愛があればそうするものです。
逆に女の方が欲求不満になる場合もあります。
この場合、男は勃起しなくても同じく手なり口なりで取ってあげなければいけません。
但し、男は性波動を変換して返さなければいけないことを忘れてはなりません。
男は出したら終わりですが、女には色々と愛撫が必要です。
性器は当然ですが、口(唇・舌)や乳房も性波動を出し入れする機能が備わっています。
愛撫の対象となるのは当然です。
他に性感帯と呼ばれるところもそういう機能があるということです。
性波動も性格的な相性も合わなくなってしまったカップルは、修行と思って付き合ってください。
そうでないならば別れることになるでしょう。
『この世は筋書き、修行の場である。ならば本当のパートナーよりもり修行になる人を好きになった方が良い。』
Part4[心]語録より。
恋愛感がなくても性波動が合うと、恋愛感に似た感情が出てきます。
この疑似恋愛でカップルになっている男女は多く見受けられます。
この場合、性波動が合わなくなるか、どちらかの性波動が少なくなったりすると、このカップルは破綻します。
疑似恋愛の他に、エミュレーション(Part4[心]恋愛を参照)による恋愛もあります。
私は2回離婚していますが、2回ともエミュレーションによる恋愛でした。
筋書き上の恋愛と言えます。
その時は恋愛感はありましたが、性波動は合っていませんでした。
と言うことで、本当の人間であっても、いや神であってもセックスはします。
但し、ここで言うセックスは、波動のリサイクルという意味のセックスです。
これは、性器のの交わりを必要としなくてもできます。
※参考
赤い糸で結ばれているカップルは、何が起ころうと別れることはありません。
逆に言えば、あなたがどれだけその人を思うとも、去っていく人は本当のパートナーではないということです。
未練という煩悩をなくし、次のステップに移ってください。
心というのは、一つでは存在できません。
いつかは、赤い糸で結ばれたパートナーに出逢えます。
ところで、赤い糸とはなんでしょうか?
答えは、Part5[時間と空間]で。
セックスまとめ
・気持ち良いと言うだけでのセツクスは、おいしいから食べるのと同じことで本末転倒してしまう。
・セックスする本当の理由は、性波動をリサイクルすることにある。
・地球人の肉体には複数の心が入っており、しかも男の心で女の肉体を女の心で男の肉体を持つ者もいる。
・また地球人には確固たる人間愛がないがため、正しいセックスはできないことになる。
しかし、この世は心を修正する場、そうやって煩悩を吐くのも一つの方法である。
売春買春
性波動(性欲)が蓄積してくると、身体に不調をきたすのは医学的にも証明されています。
波動の科学から見れば、波動の排泄物が蓄積されるわけですから当然のことです。
となると、蓄積された性波動を放出しなければいけません。
しかし、自分一人での性波動の放出には限界があります。
相手が居ないことには完全に放出することができません。
運良く、相性の良いパートナーに恵まれた者は良いですが、パートナーに恵まれない者は何か手段を講じなければいけません。
この世では、パートナーでなくても、そういうことを仕事とする者に頼むという方法があります。
(エロヒムは、「真実を告げる書」にあるように、肉体的には人間と何ら変わらない生体ロボットに頼みます。)
しかし、地球人はセックスの本当の意味を知っていません。
知らないどころか、いやらしいものと偏見の目で満ちあふれています。
それでありながら、性の快楽には太刀打ちできません。
快楽を求めてのセックスにひた走ります。
この世には、お金という物が存在します。
このお金が、セックスの氾濫に輪を掛けます。
セックスよりもお金が優先され、セックスの本当の意義からはさらにかけ離れたものになっています。
これでは、社会の秩序を保つことができません。
従って、法律というものによって規制することになります。
但し、黙認されている部分があるのは確かです。
それが合法的である国もあります。
その理由はお分かりと思います。
売春は世間から白い目で見られます。
でも、無くなるものではないです。
問題は、その動機です。
セックスをひとつの治療として考えれば良いのです。
蓄積された性波動を放出してもらう、あるいは放出してあげるというふうに考えれば良いのです。
但し、放出してあげるにはそれなりの能力が必要です。
従って、すべてではないですが、筋書きとしてそれなりの能力を持った者がそういう仕事に就いているようになっています。
彼女たちは、そういう能力を持っている貴重な存在なのです。
体を売るような愚かなことをしていると言うものもいますが、違法である反面、彼女たちがいるからこそ社会の秩序が保たれている部分もあるわけです。
そして、宇宙から見れば波動の処理という大事な役目を担っているのです。
但し、彼女たちの動機は、決して良いものとは限りません。
筋書きとしては、その動機を逆用しているとも言えます。
と言っても、やはり世間からは白い目で見られます。
白い目で見ると言うことは、その人を軽蔑していることになります。
そういう者ほど、人は皆平等でなければならないと綺麗事を言うものです。
それで、片一方では人を蔑むという矛盾したことを言います。
すべてではないですが、人が嫌がる仕事や蔑視される仕事をしている者、言い換えれば、社会の底辺にいる者ほど、自分を犠牲にして人のために生きていると言うことになります。
悪と思っていたことが善で、善と思っていたことが悪という言い方もできます。
さて、買う側の立場に立ってみましょう。
治療としてそのようなことをする人は、皆無かと思われます。
平成元年頃のことになりますが、私もソープに行ったことがあります。
そのときは、既に覚醒していましたので上の指示によるものです。
それまでだったら、後ろめたさと恥ずかしさにより行くことができませんでした。
私は理屈を知っていますので、本番そのものはしません。
とにかく性波動さえ放出できればよいので、相性の良い人に出してもらえばそれで済むことです。
本番がなくても、心の相性も合えば、放出だけでなく中和することもできます。
中和できると、蓄積されていた性波動が自分の心に付加されます。
愛がなく本番で性波動の放出をすると、性波動以外の波動まで放出することになり、心の縮小が著しくなります。
お互いの心持ち・相性は、性波動の処理結果に大きく影響します。
夫婦であっても、セックスの相性が悪いと性波動の放出中和はうまくできません。
その場合、さらに性波動が蓄積されかえって体調が悪くなることもあります。
場合によっては、精神的な面まで影響を及ぼします。
世間からどう見られても、性波動が蓄積して体調を崩すなら、お金を払ってでも放出してもらった方が良いです。
しかし、禁欲することによって得られるものもあります。
私は、平成15年頃からは愛する人も居なくなりセックスをしていません。
平成21年にパートナーとおぼしき人に出会い、セックスを試みましたが相手の性波動を取るだけに終わりました。
その後も数年間は禁欲を続けていました。
これにより、本来、排泄しなければいけない不要な波動が蓄積され、肉体的苦痛を得ることができました。
この肉体的苦痛は、心を成長さすには非常に良いものでした。
このようなことではなくても、病気や怪我で痛いた目に遭い、心が清められた経験を持つ人は少なくはないと思います。
悪霊が取り憑いていると性欲が過剰となるときがあります。
時には、異常な性欲や性癖を生ずることもあります。
それをそのまま放出することは、悪霊の言いなりになるということです。
これではいつまで経っても悪霊が出ていってくれません。
悪霊が居なくなるまでは、禁欲する必要があります。
と言っても、自身の力で悪霊を払うことは困難なこともあります。
この場合、悪霊を払って貰える人に浄霊してもらうと良いです。
私もそうしました。
性器を交えるセックスは、愛する者同士でないと心が縮小します。
しかし、その人にとって不要な心は持っていても仕方ありません。
また、個人的には、セックスの目的が何であれ、宇宙全体から見れば波動の処理という大切な行為です。
従って、快楽を追うセックスや愛のないセックスであっても今は許されるのです。
セックスに限らず、この地球にある非倫理的な行為は、訳があって許されているのです。
本当の人間は全知全能です。
何でもできてしまう者にとっての生きがいは、「真実を告げる書]にある通り、官能の世界しかありません。
『人間は恋する生き物。官能の世界に生きる生き物。それが心と肉体を維持する。』
Part4[心]語録より
但し、人間愛とは何かがわかるまでは、本当の恋愛はできません。
『性を語らずして悟りを開いたとは言えない。』
Part4[心]語録より
偽悪者は、性の話しを好みます。そして快楽とします。
偽善者は、性の話しを嫌います。否定します。
でも、心の中では好んでいます。
むっつり助兵衛という言い方もできます。
但し、性を正しく理解しない者あるいは快楽とする者の前では、話さないことが賢明です。
売春買春まとめ
・一人で性波動の処理が困難な者は、お金で解決することができる。
・それを治療として見れば、売春買春も悪いことではない。
・それよりも売春する者を蔑視することのほうが悪である。
・禁欲も心を大きくするには大切なことである。
・悪霊に取り憑かれると、異常な性欲を生ずることがある。
・この場合、悪霊が居なくなるまで禁欲することであるが、それができないときは、それなりの能力を持った人に浄霊してもらうことである。
依存症
欲望が病的になると、依存症となります。
酒、タバコ、ギャンブル、セックス、薬物、異常な食欲、等々
それがないと、あるいはそれをしないといられなくなったら病気だと思ってください。
肉体の病気であれ精神の病気であれ、病気というのはその人が元々持っているもの、あるいは持たされたものです。
病気に罹ると、なんでこんな病気になってしまったのだと思うかも知れませんが、
病気に罹らないことには、自分の心を修正することはできません。
だから、病気に罹ったら、これで自分の心を修正することができると思えば良いのです。
病気があるのは、この地球だけです。
地球人の心を修正するために、筋書きとして特別に作られたものです。
依存症は、その人の持つ欲望を徹底的に吐かしてしまうために筋書きとしてあつらえた病気です。
完全に吐き尽くすか、その煩悩に打ち勝つことができるまでは続きます。
依存症まとめ
依存症まとめ
・依存症という病気は、その人の持つ欲望という煩悩を徹底的に吐かすために筋書きとして与えられたものである。
煩悩のあいうえお 欲望「まとめ」
■欲望には、必要な欲望と不必要な欲望とがあります。
しかし、その判断基準は難しい場合があります。
同じ欲望であっても、その時その状況によって必要(可能)となったり不必要(不可能)となったりします。
■この世では、不必要な欲望を持つ者が大半ですし、また叶うことが多いです。
でも、不必要な欲望であっても、それが叶うことによって心が浄化されるならば、必要な欲望ということになります。
欲望「売春買春」のところで述べたように、「セックスに限らず、この地球にある非倫理的な行為は、訳があって許されているのです。」と同じ理屈です。
但し、不必要な欲望が叶ったとしても、因果応報、いずれは災いとなって返って来ます。
人として生きる者、不必要な欲望と分かれば徹底的に制して行ってください。
■煩悩となる正の欲望
あれが欲しい、これが欲しい、ああしたい、こうしたい。
足るを知れば、あれが欲しい、これが欲しいと思うことはなくなります。
そして、今あるものすべてに感謝できるようになれば、次に必要なものが与えられるようになっています。
■煩悩となる負の欲望
あれはいや、これはいや、何もしたくない。
自分を中心に周りを見ると、ああしたい、こうしたいと思いますが、
他を中心に周りを見れば、ああしなければならない、こうしなければならないと、
山ほどしなければならないことが見えてきます。
■欲望を断ち切るために必要なふたつの心
“自制心”と“忍耐力”
このふたつは、煩悩が無くなれば必要でなくなります。
制すると自由が無くなります。
耐えるのはしんどいです。
煩悩無くして、自由奔放に生きられる心となって下さい。
■もし、あなたが不必要な欲望により利益を得たとしても、因果応報の法則によりいずれは損をすることになります。
それがお金や物ならまだよいですが、心を削って返さなければいけない場合は、来世は人間として生きることは難しくなります。
自分だけが得をしたりいい目をしても結局どこかで損をすることになります。
自分が人より得をしている、いい目をしていると思われる方は、ご注意ください。
もし、余分な財産があるならば他のために使ってしまうことです。
但し、そのために財産を築くのはかまいません。
■運の良い者は、たくさんの利益を得ることができます。
何故に、自分にはそれだけの利益が得られるのか考えてみてください。
(※ここで言う運とは、その人の能力や努力も含まれます。)
シェアする