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煩悩のあいうえお(2) 煩悩の意味

目次

煩悩と言う言葉は、仏教用語

煩悩と言う言葉は、仏教用語です。
だけど、煩悩を仏教的に解説すると何のことか分からなくなります。
ちなみにネットで煩悩について調べてみて下さい。
やたら難しい言葉が出てきて、結局何のことか分からなくなってしまうでしょう。
高僧であっても理解出来ることではありません。
お坊さんが、本当に煩悩の意味が分かっていたら、あのような装束はしないでしょう。
お経をあげることもしないでしょう。装束もお経も煩悩の現れなのです。

犯罪だけが悪ではない

さて、世間一般では、悪とは犯罪を指します。
でも、理性が正常に働いていれば、犯罪を起こすことはありません。

「真実を告げる書」にあるとおり、犯罪者は理性の働かなくなる脳の病気です。
 医学が発達し、病気を治せるようになれば犯罪はなくなります。

従って、皆の理性が働けば、この世から犯罪はなくなります。
ですが、犯罪がなくなったとしても皆が幸せになるとは限りません。
それは、犯罪だけが悪ではないからです。
私の言う悪は、犯罪のような悪だけではなく煩悩を吐くことすべてを言います。
犯罪のような悪は、理性が働いていれば誰でも悪と分かりますが、
煩悩と言う悪は分かりにくいです。
煩悩、つまり人間として正しくない心持ちはすべて悪となります。

ひとつ、例を挙げます。

自ら体を害するようなこと、
例えば、お酒を飲みたいタバコを吸いたいと言う欲望は煩悩です。
お酒は許容量以上飲めば毒であることが分かっています。
タバコは全くの毒です。
そのときは気が紛れるかも知れませんが、結果的には自分の体を傷つけています。
お酒やタバコにに限らず、快楽を追うことはすべて不健康を招きます。
幸せの基本は健康であること、自らそれを害することの愚かさに気が付いて下さい。

もう一つ、例を挙げます。

人を憎むことは最もいけない煩悩です。

腹を立てることはありますか?
何故腹が立つか分かりますか?
そのとき相手を憎んでいませんか?
そう、憎しみという心が腹を立たせるのです。
憎しみという感情がなければ腹など立つわけがありません。

人を憎んで楽しいですか?
人を憎んで幸せに出来ますか?
どちらもNoですね。
憎しみは自分も人も不幸せにします。
「人を呪わば穴二つ」ということわざの通りです。
決してあってはならない心です。
人を憎む者は、自ら不幸せを願っているのです。
おかしいでしょう。

この二つのことから分かるように

結果的に不幸せを招くような行為や感情はすべて煩悩という悪です。
煩悩を持っている限り、その人は幸せになることはできません。
また、周りの者も不幸せにします。
でも、その煩悩を自分で浄化できない者は、吐き出すしかありません。
吐き出すことによって煩悩は無くなっていくのです。
但し、煩悩を吐いてばかりでは、その者の心はどんどん縮小していきます。
人間となる者、吐き出さずに、極力、心の中で処理して下さい。
でもその時、苦しみが伴います。
しかし、その苦しみこそが、あなたの心を増大させるのです。

必要悪

煩悩を吐き出さすための悪というのもあります。
例えば、あなたの子供が誰かに殺されたとしましょう。
そうすると、あなたは殺した相手を憎むでしょう。
憎くて憎くて仕方ないでしょう。
でも、そうやってあなたの持つ憎しみという煩悩は無くなっていくのです。
ここに人殺しという悪が必要となるのです。
そして、殺された子供は子供で前世の因果によってそういう結果となっているのです。
人を殺した者は、来世で殺されることになるのです。

人殺しは極端な例ですが、
些細なことで目くじら立てていることはいくらでもあると思います。
憎しみ恨みを無くし、すべてを許せる心となってください。

このように見ていくと、
悪があるからこそあなたの心は修正されていると言うことが分かります。
悪を肯定するわけではありませんが、今は悪をなくすために悪が必要なのです。
言い換えると、悪によってあなたは助けられているのです。
逆に言えば、
悪を発する者は無意識のうちに人助けをしていると言うことになるのです。
但し、そういう人は来世は宇宙の塵かも知れません。

煩悩がある限りは、どれだけ綺麗事を並べても偽善者

理性が働けば、犯罪のような善悪の判断は出来ます。
また、人間として正しい行いとは何かも分かります。
だから、綺麗事はいくらでも言うことが出来ます。
でも、綺麗事がいくら言えても、言ってることとやってることは一致しません。

ひとつ、例を挙げます

命は大切だと言いながら、毒と分かっているのに酒やタバコを飲んだり、
おいしいからといって体に不必要な物を食べたりと自分で自分の命を縮めるようなことをしていませんか?

何故こうなってしまうのかというと、煩悩があるからです。

煩悩がある限りは、どれだけ綺麗事を並べても偽善者となるだけです。

このような煩悩は、気づき始めると煩悩とすぐ分かる煩悩です。
煩悩と分かれば、後は徹底的にその煩悩と闘っていけばよいだけです。

でも、中には煩悩と分かりにくい煩悩もあります。
煩悩を無くすには、まず何が煩悩なのか分からなければなりません。

この世は修業の場

こういう心になりなさい、ああいう心になりなさいと、
良い心を増大することも大切ですが、
こういう心をなくしなさい、ああいう心をなくしなさいと、
悪い心を消去していくことの方がもっと大切です。
人間として生きる者、微塵の悪心(煩悩)も無いようにしてください。

人間として生きる者としましたが、
心あるものすべてに、悪心(煩悩)があってはならないです。
従って、この地球に存在する動物たちも、また、修行として生まれてきているのです。
その中には、人間でない心であっても、人間の姿をして生まれてきている者もいます。

この世は修行の場、
煩悩と闘うために生まれてきているのだと言うことを忘れないでください。
この世に生まれて来た者は、覚醒するまでは、一生、煩悩との闘いなのです。

煩悩には、自分の心から発するものと外から入ってくるものがあります。
まずは、自分の心から発する煩悩を無くしてください。
その後は、ひたすら外から入ってくる煩悩との闘いです。

申し訳ないですが、煩悩と闘おうとしない人は論外とします。
そういう人は、本質の心が人間でないと思って下さい。

煩悩と闘えなくても

煩悩の話しから少しそれますが、
本質の心が人間でない者が、人間になっても決して幸せを得ることはできません。
永遠の命を得たとしても、生きていることに耐えきれなくなり、
自ら命を絶とうとします。
でも、一時は人間の姿ととして生きることにより、
飛躍的に自身の心を高めることができます。
だから、人間としての心を持たない者でも、
この地球に人間の姿となって生まれて来ているのです。
そして、この世での修行が終われば自身の生まれた星に戻り、
その心に相応しい生命体あるいは霊体となって
幸せに生きることが出来るようになっているのです。

来世も人間として生きる者は、ひたすら煩悩と闘うことができます。
そして、最終的にはいかなる煩悩にも動じなくなります。
そうでない者は、煩悩と闘おうとするまでもなく煩悩に打ちひしがれ、
あるいは煩悩を吐きながら一生を終えることになります。
しかし、どちらの道へ進んでも来世は幸せに生きられることは間違いないです。
つまり、煩悩と闘うことが出来なくても、
それが良いからそうなっていると言うことです。

煩悩と闘える者は、煩悩と闘えない者を見ても決して蔑視しないこと、
暖かく見守ってあげて下さい。
煩悩と闘えない者をとやかく言えば、それもまた煩悩です。

※補足

宇宙人の中にも心が未熟な者がいます。つまり、悪(煩悩)を発する者もいます。
但し、犯罪のような悪はありません。
たとえ、犯罪を起こしても本当の人間には犯罪となりません。
本当の人間の能力はスーパーマン以上ですので、
どんな悪にも平然と対処することが出来ます。

まとめ

・煩悩という言葉は仏教用語ではあるが、仏教的に解説しても意味はわからない。
・犯罪だけが悪ではなく、煩悩を抱くことすべてが悪である。
・最もいけない煩悩は、人を憎むことである。
・この世の悪は、必要悪である。
・煩悩ある限りは、どれだけ綺麗事を並べても偽善者である。
・この世は修行の場、煩悩と闘うために生まれてきているのである。
・覚醒するまでは、一生、煩悩との闘いである。
・煩悩と戦えない者もいるが、それはそれで良い。

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